八木義徳-「劉廣福」(リュウカンフウ)

集英社「戦争×文学」(全20巻+別巻1)の「満州の光と影」及びポプラ社「百年文庫」の「波48」に、
八木義徳氏の「劉廣福」(リュウカンフウ)が所収されています。

「劉廣福」は、第19回 昭和19年上半期)の芥川賞作品ですが、満州を舞台にして、劉廣福という中国人労働者を描いたものです。

この作品の手ごたえは、劉廣福という男の魅力だと断言できる、と思います。あくまでも推測でしかありませんが、八木義徳氏は、劉廣福の生命力に驚嘆し、まるで憑かれたように筆を進めたのではないでしょうか。そう推測するエビデンスとして、行間から劉廣福のエネルギーを感じざるを得ないからです。

そして、当時の満州の状況が垣間見られる、ということが、この作品の副産物でもあるわけですが、そういう所以で、「満州の光と影」に所収されたのだろう、と思います。また、この時代を描くに際して、非戦争体験者ではない、戦争体験者の独特の余裕が感じられます。

是非劉廣福という男の魅力を堪能して頂きたい、と思います。

余談になりますが、ご紹介致しました2冊の本には、「劉廣福」以外に素晴らしい作品が所収されていますので、小説の醍醐味が味わえるのではないでしょうか。

草壁丈二

「世界の陰謀論を読み解く ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティ」-辻隆太朗氏著 講談社現代新書

この「世界の陰謀論を読み解く ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティ」を購入した動機は、

「日本にも陰謀論は人口に膾炙していて、まことしやかに陰謀論を語る人々が存在しているのは何故か」

という素朴な疑問があり、ひょっとしたら、この本が、疑問を解いてくれるかもしれない、と期待したからでした。やや興味本位であった、という点は否めませんが・・・・

ユダヤ、フリーメーソン、イルミナティの中で、日本で最もメジャーな陰謀論は、ユダヤにまつわるものではないか、と勝手に思い込んでおりますが、日本人はユダヤ人に対して感謝(?)すべきことがあるように思っています。本著にも記述がありますが、日露戦争の際に、日本政府が起債した戦時公債をジェイコブ・シフというユダヤ人が半分程引き受けてくれたからです(これについては、内田樹氏著「私家版・ユダヤ文化論」-文春新書P15-16をご参照頂ければ、本著より詳しい記載があります)。

しかし、残念ながら、本著によると、1918年のシベリア出兵の際に、反革命派のロシア人経由で「シオン賢者の議定書」が日本に上陸したことが端緒となり、第2次世界大戦期に ユダヤ陰謀論が流布していったようです。徳富蘇峰、愛宕北山、四天王寺延孝などの著名人が、ユダヤ人陰謀論をつきづきに訴えたそうです。ところで、「シオン賢者の議定書」というのは、ユダヤ人の世界支配陰謀を主張したもので、フランス革命からロシア革命にかけての1世紀あまりの間にポピュラーになったそうです。

ここで、新たな疑問が湧き出てきます。第2次世界大戦が終ってから、70年近くも経っているにもかかわらず、未だにしぶとくユダヤ人陰謀論は生き残っていのか、ということです。

本著からの引用になりますが、

「この社会がどのように動いているのか、誰がどのような目的で動かしているのか。そもそも誰かが動かしているのか、勝手に動いているのかわからない。そのなかに存在する自分の生活や選択は、本当に自分の意志によるものなのか。本当は他の誰かの意志に踊らされているだけではないのか、知らないあいだに社会的に構築されコントロールされてるのではないか。

そのような不安に対し、陰謀論は世界の秩序構造を明確に説明し、世界やわれわれを操作する主体を一点に集約し可視化するとともに、陰謀論者たち自身の自律性の感覚や自己の独自な存在意義を回復し保証する機能を持つ、と考えることができる。陰謀論は世界がどうなっているのか、何が正しく何がまちがっているのか、誰がどのように世界を動かしているのかを明快に説明してくれる。簡単に言えば、陰謀論はわかりにくい現実をわかりやすい虚構に置き換え、世界を理解した気になれるのだ」

ということが根本的な要因だとすれば、生き残る理由の説明として首肯できます。

心理学については疎いですが、陰謀論を飲み込むことによって合理化が可能になるとすれば、やはり、陰謀論は今後も蔓延し続けるのだろう、と推測されます。

凡百の陰謀論を収集・分析して頂いた著者には、衷心よりお礼を申し上げたい。

草壁丈二

「くれったれ! 少年時代」 チャールズ・ブコウスキー著 訳:中川五郎なかがわ ごろう)氏

「くれったれ! 少年時代」
チャールズ・ブコウスキー著
訳:中川五郎なかがわ ごろう)氏
河出文庫
1999年12月3日初版発行
発行所 河出書房新社

チャールズ・ブコウスキーの作品に登場してくる主人公は、とにかく愚行を繰り返します。鯨飲し、喧嘩し、競馬場に足繁く通い、そして幾度も職を失います。作品自体のストーリー性は希薄で(短篇などそうではないものも多々ありますが)、この愚行が延々と描き続けられます。

辟易としてしまう読者もいるかと想像されますが、私は何故だか逆に惹かれてしまいます。その理由はしばらくわかりませんでしたが、ある方が、マステリーだ、ということを書かれておられました(どなたの何という本だっか、残念ながら記録をとっておりません。申し訳ないです)。マステリーとは、反復行動によって過去のショックの感情を癒し、和らげていく行為のことらしいです。

チャールズ・ブコウスキーにとって、過去のショックの感情とは何であったか、というと、父親から受けた虐待だったようです。「くれったれ! 少年時代」ではそれが克明に描かれています。この作品が自伝的要素の強い小説だといわれていますが、フィクションであるにしろ、ないにしろ、ブコウスキーの作品群を読むにあたっては、この作品は羅針盤的役割を果すのではないだろうか、と思います。

また、この作品においては、人間が成長を遂げていくプロセスもごつごつとした手触りで描かれており、私にとっては高級な文学作品といえます。ご一読をお勧め致します。

<余談>
映画「つめたく冷えた月」(パトリック・プシテー監督、原作:チャールズ・ブコウスキー)は、原作に負けず劣らず面白く鑑賞させて頂きました。

草壁丈二

 「キリスト教は邪教です!」現代語訳「アンチクリスト」F・W・ニーチェ著

「キリスト教は邪教です!」
現代語訳
「アンチクリスト」
F・W・ニーチェ著
訳:適菜収(てきなおさむ)氏

私は日本に生まれ、日本の文化の中で育ってきました。また、宗教、特にキリスト教に関しては無知といってよいと思いますので、本著この著書におけるニーチェの叫びを真の意味を理解できたのか、危惧されます。
ただ間違いなくいえることは、ニーチェの圧倒的なエネルギーを感じた、ということです。その具体的な叫びを本著から引用致します。

唯一の神、唯一の神の子という発想は、しょせん下層民の恨みつらみから発生したタワゴトに過ぎません

言ってみればキリスト教は、「人間のダメな部分」の集合体なのですね。

「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたたちにどんな報いがあろうか。税金取りでも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけあいさつしたところで、優れたことをしたと言えるのだろうか。税金取りでさえ、同じことをしているではないか」(マタイ伝5の46)

これがキリスト教の愛の原理です。つまりこういう愛は、最後に見返りを受けることを願っているのです。

引用したい箇所はこれだけにとどまりませんが、誤解すべきでないことは、ニーチェがイエスではなく、キリスト教に痛罵を浴びせているということです。「キリスト教会が、自分たちの宣伝に都合がいいように、イエスをどんどん変えたからです」とニーチェは書いています。

本著を読みますと、キリスト教の本質が見えるような気がしますが、冒頭でも書きましたように、キリスト教文化圏で育っていない私にとっては、ニーチェの叫びがどれほど重い意味があるのか、肌で実感できないことが非常に残念でなりません。
ところで、訳者の適菜収氏は「訳者から-本来の神の姿をゆがめたキリスト教」で「ニーチェも言うようにキリスト教は戦争を必要とする宗教です。日米戦争、パレスチナ問題、ベトナム戦争、イラク戦争などにおける、アメリカをはじとするキリスト教原理主義国の行動パターンも、本書をお読みになれば、すっきり腑に落ちることと思います」と書かれておられます。確かにキリスト教原理主義国が戦争が起こす要因の根の部分は理解できますが、他の要素も多分にあるように思います。例えば、キリスト教原理主義国が持つ独特の被害者妄想などです。もちろんキリスト教が戦争を必要とする宗教である、ということが起因しているとは思いますが、キリスト教を信仰している人々は、実はキリスト教の不自然さに潜在的に不安・居心地の悪さを抱えていて、その不安を他国へも押し付けてしまう、という心理が働いているのかもしれません。この点については、さらに研究を進めていきたいと個人的には考えております。

余談ですが、レヴィ・ストロースは「600年おきに質の悪い宗教が誕生していった」とおっしゃっておりますが、本書を読むと、茫漠とではありますが、理解できるような気が致しました。

最後に:読みやすく現代語訳してくださった適菜収氏には、衷心よりお礼を申し上げます。また、この刺激的な本に対するキリスト教を信仰なさっている方々の感想を、是非聞きたいと思っております。

草壁丈二

 「人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス」 ジークムント・フロイト著

「人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス」
ジークムント・フロイト著
訳:中山元(なかやま げん)氏
光文社古典新訳文庫

「無意識」という言葉は日常生活の中で日常的に使われているいますが、フロイトが「無意識」を発見する以前は、人間は人間の理性と自律性を基盤として(あるいは、前提として)社会が成り立っていると考えていたのかもしれません。しかし、フロイトは、その基盤を破壊してしまったといっていいのでしょう。別のいい方をすれば、人間の新しい生き方を示唆してくれたのだろうと思います。
フロイトについては、多くの先覚が研究なさっておられて、多くの書物が発刊されていますので、いまさら私の如き浅学な輩が語ることは何もありませんが、この度、光文社古典新訳文庫から「人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス」が刊行されたことは僥倖といっても過言ではありません。中山元氏が読みやすく訳されているだけではなく、「戦争と死に関する時評」「喪とメランコリー」「心的な人格の解明」「不安と欲動の生」の章を加えることによって、章同士が補完し合い、本著というよりフロイトへの理解を深められる工夫溢れる構成になっています。是非ご一読をお勧め致します。
ところで、人間は1日生活しただけでも莫大な量の情報を小さな脳で処理しなければなりません。汎化という作用によって抽象化された記憶になって脳に保存されるらしいのですが、もし脳の中に無意識というアブゾーバというべきかブラックホールというべきか、よくわかりませんが、そういう領域があってこそ、脳での情報処理がダウンしないのかもしれません。これは、稚拙な推論ですから、どうか一笑に付してください。しかし、フロイトの「無意識」の発見がなければ、このような愚考も浮ばなかったわけですから、フロイトに衷心より敬意を表わしたいと思っております。

草壁丈二

「聖地巡礼リターン」を大変面白く読みました。

内田樹氏×釈徹宗氏の「聖地巡礼リターン」を拝読致しました。大変面白かったです。

今回の内容は、

・長崎とキリシタン

・隠れキリシタンの里へ

・京都と大阪のキリシタン

でしたが、隠れキリシタンの心情というかメンタリティーというか深層心理というか、そういうものに豊富な知識をベースにして深く踏み込んでおられました。

現在、マーチン・スコセッシ監督による「沈黙-サイレンス-」(原作:遠藤周作)が公開されましたが、全体的には、張り詰めた緊張感があったことは非常にプラス評価でしたが、隠れキリシタンと為政者の対立の構図が押し出され過ぎていたようにも感じました。カトリック教の神父を目指していたらしいマーチン・スコセッシ監督にとっては、弾圧する側の残虐非道な行為に対する怒り・悲しみ等の感情も、映画のテーマになっていたのかもしれませんが・・・・
それと、窪塚洋介さんが演じた「キチジロー」。原作と比較する愚を犯したくはありませんが、「キチジロー」についてのスコセッシ監督の解釈は、西洋の裏切者的要素が色濃かったような気がしました。個人的には、原作の「キチジロー」は、どこか憎めないところがある、という印象を持っていて(以前、読んだ際、水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくる「ねずみ男」を連想していました)。日本人のメンタリティとしては、「キチジロー」的人物には寛大になってしまうのではないか、と勝手な憶測をしてしまいました。しかし「キチジロー」役を窪塚洋介さんは好演なさっていました。

最後に。
観念的な絶対神への信仰は、狂信的とはいかないまでも、頑なになりやすいのかもしれない、という思いも去来致しました。この点については、異論が出てくることは承知しております。まず「観念的な絶対神」とは何ぞや?と問われれば、小生にも、うまく説明できません。が、そもそも絶対神が存在する、と信じることが観念的ではないのでしょうか。正直いって、この辺になると、ややこしくなるので、不明な小生に誰かご教示頂ければ、幸甚でございます。

因みに、「聖地巡礼リターン」の「・隠れキリシタンの里へ」では長崎県の西彼杵半島にある外海(そとめ)地区がフィールドワークの対象となっていまが、「沈黙-サイレンス-」の舞台も、この地区のようです。夕陽が、非常に美しいところです。

「芸術人類学」(中沢新一著)

「芸術人類学」
中沢 新一著
2006年3月22日発行
発行所 株式会社 みすず書房

10万年ほど前に新人と呼ばれる新しいタイプの人類が誕生したそうです。それまで人類とどこが決定的に異なるか、というと大脳内のニューロンの構造だそうです。「それまで接続できなかったニューロン同士の間に、新しい接続のネットワークがつくられ、それによって人類の心にそれまでなかった新しい領域が出現するようになったのですね」(本著より引用)。その結果として「それまでは別々の領域に分離されていた心の働きがひとつにつながって、そこに比喩や象徴を生み出すことのできる、異質なものの重なり合った『表現』をおこなえる心がつくられるようになりました。そしてそれといっしょに、芸術が発生したのです」(本著より引用)

上記の本著引用部分は芸術の起源に言及した重要な部分だと思います。恐らく間違いないことなのだろうと思います。進化が変化への対応だとすれば、10万年前に起きたニューロン構造の変化は、人類が生き延びるためには比喩や象徴によって高度なコミュニケーションが必要な状況に追いやられていたのかもれはせん。そして、その副産物として「芸術」が発生したのかもしれせまんし、あるいは、脳の中で起こっている現実と対応しない事態(妄想など)と現実との乖離を埋めるために「芸術」が必要だったのかもしれません。

私の当て推量はこれくらいにして、本著は人間という摩訶不思議な生き物の最深部から「芸術」の起源と本質を抉り出してくれました。長年私が抱いたいた疑問解決への燈台的役割を果たしてくれました。本著に対して感謝すべきだと思います。

<補足事項>
*1 本著をさらに深く理解するために「対称性人類学」(講談社刊)を併せて読んで頂くことをお勧め致します。
*2 本著の「十字架と鯨」を読んで、最近の捕鯨問題の真相が見えてきたように思います。

草壁丈二