ずっと八木さん、カズミちゃん
平井一麥 (ひらい かずみ 野口冨士男氏長男)
八木義德さんの思い出はあまりにも多すぎるので、少しだけ書かせていただく。
父野口冨士男が昭和五十九年三月「産経新聞」に「師友・八木義德君」を書いている。「二人が知り合ったのは、敗戦直後の二十三年一月に創刊された「文藝時代」に同人として名をつらねた時のことである。三十名を越す同人には戦前派から戦後派に至る呉越同舟のおもむきがあって、私は戦中からの仲間であった青山光二と船山馨は当然として、椎名麟三、梅崎春生、芝木好子といった同世代とも親しんだ。八木も、その一人であった。(略)友人関係とは不思議なもので、性格的に類似性がある場合より相違点の多いほうが永続する」。
八木さんのことが父の日記に最初に登場するのは、昭和二十三年四月十六日で「八木君来訪、新世代社へ同行」だ。同社は「文藝時代」を刊行する出版社だった。このころ二人は、週に一、二回は会っていた。当時の私は小学二年生にすぎなかったから、八木さんは、私のことを「カズミちゃん」と呼んでくださったし、私も八木さんとお呼びしていた。
平成五年十一月父が死去し、蔵書や生原稿、取材ノート、八木さんから頂戴した二四九通の書簡なども、母の実家があった埼玉県越谷市立図書館の「野口冨士男文庫」に寄贈させていただいた。翌六年十一月の「野口文庫」開設式には、前日から越谷に宿泊していただいて、祝辞を頂戴した。
平成十年「野口文庫」の講演を、八木さんにお願いしていたが、お加減が悪く、町田駅前の病院から北里病院に転院されていて、講演していただくことは無理だったので、十月十日の体育の日にビデオ収録させていただいた。八木さんは私の質問に対して「カズミちゃん」とおっしゃってから「平井さん」と呼びなおされた。撮影終了後、病院最上階のティールームでコーヒーをいただいていたとき、「丹沢の夕焼けは、きれいだねぇ」といわれた言葉が、今も耳に残っている。ビデオ「八木義德、野口冨士男を語る」は、貴重な記録として「野口文庫」に所蔵されている。
平成十一年、私は家人とラグビーのワールドカップ観戦のため英国にいた。決勝戦が終った翌十一月七日、ロンドンからJALの最終便で帰国する予定で、パブで飲んでいた時、ふと、この日は二便飛んでいることを思いだし前便に搭乗した。八日、帰宅した私たちを待っていたのは、八木さん危篤の報せだった。息子の車で多摩丘陵病院に着いたのは午後十時ごろで、「八木さん」と何度もお呼びしたが、残念ながらお返事はいただけなかったので、手を握らせていただいたのがお別れになった。JALの最終便では時間的にも無理だったろうから、八木さんに呼ばれたのだと、私は今でも思っている。
ビデオ収録後も何度かお見舞いしたが、六十歳近い私を、ずっと「カズミちゃん」と呼びつづけてくださったのは、父の友人のなかでも八木義德さんお一人だけだった。