八木義徳が眠っていた松源寺

八木義徳の菩提寺、臨済宗松源寺は東京都中野区上高田1丁目にあり、通称「猿寺」とよばれて親しまれております。本堂左手の階段を降り、右手の石垣に沿って歩いていくと、突きあたりの数歩手前に「八木家之墓」が見えてきましたが、現在は、墓仕舞いされて存在しておりません(お墓は富士霊園「文学者の墓」のみです)。

「猿寺」のゆらい
元禄のころ、松源寺は今の新宿区神楽坂にありました。その寺の住職、徳門が向島にある檀家の法要で、隅田川の渡し場から舟に乗ろうとしたとき、住職の法衣の裾を引っ張る一匹のサルに気づきました。
「はて、おかしなサルだ」
そう思いながらも、岸の方へ歩いて行こうとしますが、サルが追い かけてきて、また住職の法衣の裾を引っ張ります。いよいよ不審に思った住職が、腰をかがめて手を差し延べると、サルは住職のひざの上に飛び乗ってきました。そこへ、サルに逃げられたといって橋場(現 台東区)で酒屋を営む武蔵屋の主人がやってきました。立ち話をし始めた二人は、舟に乗り遅れてしまいました。
そのころ、二人が乗り込むはずだった舟は、川の中ほどで転覆し、たくさんの人が溺れ死んでしまいました。
サルに助けられたと合掌している住職に、武蔵屋は、「そのサルこそ、ご坊からいただいたサルですよ」と、話し始めました。
それは一年前のことでした。松源寺の境内には、時々サルがやってきて、いたずらをしていまし たが、人に害を与えるほどではないので、住職はそのままにしておきました。
ところが、ある日住職の留守中に寺の小僧とその仲間が、サルを生 け捕りにしました。外出先から戻った住職は、「べつに悪さをしたということでもなし、売り飛ばすのはかわいそうだ。私がお金をやるから、そのサルを放してやってくれ」と、言いました。そのとき、武蔵屋の主人が通りかかり、「わたしに譲ってください。たいせつに育てますから」と、サルを引き取って行きました。
それ以来住職は、そのサルのことはすっかり忘れていました。けれども一年後、サルはひょっこり現れて、渡し舟の災難から住職を救ったのでした。感激した住職は、そのサルを譲り受け、松源寺でずっといっしょに暮らすようになりました。
付近の人たちは、この「小サルのおんがえし」の話から、いつしかこの寺を「猿寺」とよぶようになりました。その後、松源寺は明治39年に神楽坂から中野区昭和通り二丁目へ移りました。そして、寺の門前にサルの石碑を建て、その台石に「さる寺」と刻み付けました。
今もなお松源寺は、「猿寺」として人々に親しまれているのです。