網走刑務所

1929(昭和24)年の6月、八木義徳は11年ぶりに北海道に帰郷し、道内の各地を旅しました。この時、三十年来の畏怖と神秘」の対象であった網走刑務所にも立ち寄っています。 そして、翌年の1930(昭和25)年3月、「網走刑務所」
を「別冊文藝春秋」に発表。同年7月、「脱獄者」を「中央公論」に発表しました。
この「脱獄者」は、1944(昭和19)年8月26日の夜、暴風雨のなか、網走刑務所からの脱獄を図ったSについて描いています。
脱獄魔のSをモデルにした小説は、八木義徳の作品の他、船山馨「破獄者」(1929年新潮社刊)、吉村昭「破獄」(1986年新潮文庫刊)、1991年「吉村昭自選作品集 ― 遠い日の戦争・破獄」(1991年新潮社刊)があります。


八木義徳「網走刑務所」より

獄の門 ――象徴的だ。いっとき見上げる。或る感慨が
 ある。遠い記憶だ。そして遙かな思い出だ。
  あらかじめ連絡があったか、その横の低い潜り門の通過
 は守衛所から簡単に許可がおりた。
  門をくぐって、私は驚いた。前庭はすばらしい英国式庭
 園だった。
  一点の塵もとどめず清潔に掃き清められた広い芝生に、
 あるいは丸く、あるいは四角く、あるいは三角に、あるい
 は紡錘形に、さまざまの幾何学模様に刈込まれた水松【い
 ちい】の植込みが、整然と図案風に配置されていた。一条
 の太いコンクリートの舗装路が、正面の鉄門から刑務所の
 表玄関まで一直線にこの広い芝生と庭を貫いている。さな
 がら堂々たる大富豪の邸宅の前庭であった。
 「ずいぶん立派なものですね」
 「これが刑務所のお庭とはね」
 「なんだかもったいないようですな」
  呆れて立った三人が、異口同音にいう。
 「へーえ、これがアプレゲールの監獄というもんですか
 ねえ」と役人の一人が大げさな感嘆の声をあげる。それき
 りあとの言葉がつづかぬふうである。周囲のこのあまりの
 賑やかさに確かに圧倒されたのだ。
 「新憲法のおかげですね、つまりこれが刑務所の民主化
 というやつですな」と別の役人もヘンにはしゃいだ声でいう。
 「刑務所も戦後はたいへん変わりました。昔のことを思
 うと、隔世の感があります」と佐伯次長もさすがに感慨の面
 持ちで答える。
  しかしこれらの会話をそばで聴きながら、私の心には何
 かいらいらするものがある。ある不信の感じなのだ。にわか
 に喜べぬものがあるのだ。この思い切った変化には、何か真
 実感が不足している。浮き足だった感じである。
  けれどもしかし、これは私の幼年時代、あのなつかしい
 炬燵の中の昔語りに、祖母から強迫観念にまで植えつけられ
 たところのあの「網走監獄」への絶対的な畏怖感と、それか
 ら今日ここへ足を踏み入れる瞬間まで持続してきたところの
 私の永年の密かな期待―あの陰惨な牢獄と極悪な犯罪者への
 神秘な憧憬―とが手もなく裏切られたためであろうか。
 「囚人たちの気持も戦後はずいぶん変ってきているんでし
 ょうな」
 「たしかに変ってきているように思います。しかし私の見
 るところでは、法というものに対する怖れが少くなってきて
 いるように思われるのです。こういう所に入ってきたのは、
 社会の罪で、自分の罪ではないという観念が強いようですね。
 ですからここへ入ってきても、入ってきた以上できるだけ楽
 しく暮そうという考え方のほうが強くて、ここで、犯した罪
 の贖罪をしようという気持は案外すくないように思われます」
 「考え方はどうであろうと、ともかく囚人たちの顔が明る
 いというのは、やはりいいことですな」
 「それはもちろん、暗い顔より明るい顔を見る方が私たち
 としても気持がよろしいですからね」
 「しかし……」と私も口をはさんで、「しかしその明るさ
 が心からの明るさかどうか、ということはまた別問題ですね」
 「そうすると、現代の刑務所ではほとんど完全な文化生
 活ができるっていうわけですね。……不足しているものは何
 でしょう? 多過ぎる物は鍵だということだけは分かりまし
 たが」
 「さあ、何でしょう?」
  といって佐伯さんは小首を傾げ、私と顔見合わせて笑い出
 した。笑い声をききつけて後戻りしてきた二人の役人に、こ
 んどは佐伯次長が代って謎を出すと、果して二人とも、「さ
 あ、何だろう?」と顔を見合わせた。
  しかしこの謎も、それから二分と建たぬうちにすぐ解けた。
  食堂を出、別棟の病棟を一巡して、その中庭へ出た時だ。
  いきなり視界に入ってきたある強烈な色彩に、私は思わずあ
 っと声をあげそうになった。
  病棟にコの字形に囲まれた中庭の花壇に、すばらしい大輪
 のカンナが一本、見上げるばかりの高さに咲いているのだった。
  人間の合掌したような形の、長大な濃緑の葉と葉の間から、
 すっくと六尺ほどの高さに立った強くしなやかな花茎の頂きに、
 豪華な舌状の花冠が炎の色に燃えていた。さながら紅蓮の炎だ
 った。その強烈な深紅色が突然私の眼を射てきたのだった。
  (これだ、欠けていたものは!)
  それは強烈な刺激だった。そして慾情的な挑発だった。緑の
 裾喪をあられもなく踏みしだいて、白昼の肉慾に喘ぐ女の紅い
 舌!
  (そうだ、この百パーセント文化的な刑務所の中で、たった
 一つ不足しているもの―それは女だ)


(八木義徳「脱獄」より 

  原籍青森県東津軽郡荒沢村筒江三八白鳥由栄は、前述の
 ごとくすでに脱獄三回の経歴の持主である。第一回目は青
 森刑務所、第二回目は秋田刑務所、第三回目は網走刑務所。
 破獄というきわめて至難な業を、彼は三度試みて三度成功
 している。いずれも官に対する反抗(直接的には担当看守
 の冷遇に対する復讐)がその動機となっている。
  昭和八年某月某日の夜、青森市内某町の笠井亀吉方に日
 本刀を揮って強盗に押入り、抵抗しようとした養子竹蔵を
 殺害、同十年十二月強盗殺人罪として無期懲役の判決を受
 け、青森市柳町刑務所に収容された。翌十一年六月青森刑
 務所に移監、ある時看守の一人から、ひとを殺して置いて
 まだ生きのびたいのかと嘲笑されたのに憤慨して脱獄を決
 意、房内の便器に巻いてある針金をもって巧みに合鍵を作
 り、同年八月十八日午前一時頃、前記看守の当直の夜、そ
 の居眠りの隙をうかがって脱獄、付近の山中に逃げ込んだ
 が、これによって彼に不当な侮辱をあたえた看守に対する
 復讐は済んだものとして数日後自首して出た。事実、前記
 看守は職務怠慢の廉をもって直ちに罷免された。
  その後、小菅、宮城両刑務所を経て秋田刑務所へ移され、
 「鎮静房」と称せられる周囲銅板張りの狭い独房に収容さ
 れた。ここでも彼は房内の粗悪な設備と酷寒を訴えたが、
 全く取り合ってくれぬ看守の冷酷な扱いに憤り、今度は公
 然と脱獄を宣言した。
  しかし彼は最初の青森刑務所脱獄の場合と同じく、その
 まま逃走してしまうことなく、刑務所の設備改善、特に
 「鎮静房」の廃止と、囚人への待遇改善を司法省に直接訴
 えるべく、秋田から東京まで約百四十里を一日三十里の健
 脚をもって一気に歩き通し、東京小菅刑務所に自首して出、
 ここで堂々と意見を開陳して、当局並びに社会一般をあっ
 と言わせた。
  自主の場所として彼が特に小菅を選んだのは、かつてわ
 ずかの期間ここに収容されていた当時、この刑務所の待遇
 に満足すべきものがあったという彼の遠い記憶に基づくも
 のであった。彼は愛憎の感情の特別強力な持主である。
  彼は昭和十八年四月二十五日、北海道網走刑務所に移送
 された。網走刑務所は重罪犯の監獄として著名な所である。
  この怖るべき脱獄囚を迎えた網走刑務所では、彼のため
 にわざわざ特殊施設の独居房を用意した。房の形を六角形
 に改めたのである。こうすれば、房内の角度はすべて鈍角
 になる。彼は鋭角もしくは直角のある所ならば、その角度
 を利用して壁の両側面に足をかけ、そこへピタリと吸い着
 き、吸い着いたまま壁面を這いのぼるというヤモリのごと
 き技術をもっている。前の秋田刑務所脱獄の場合がそれで
 あった。当局はそれを懼れたのである。なお躰には重量約
 三貫匁の鉄の鎖で繋いだ特別製ナット締めの手錠足枷をか
 けて身体の自由を極度に拘束した上、厳重な隔離戒護に当
 った。脱獄などは到底不可能と思われた。
  この苛酷な手錠足枷のために彼は起居動作に甚しく自由
 を欠き、食事は横になったままでなければ摂ることができ
 ない。糞尿もほとんど垂れ流しという状態である。彼は再
 三再四看守に苦情を申し出たが、むろん採り上げられよう
 はずもない。ついに彼は激怒した。そして、三度目の脱獄
 を密かに決意したのである。