八木義徳の手紙(3)

文芸誌編集者への手紙 その3
日付 平成8年(1996年)5月10日

拝復 ご丁寧なお手紙くりかえし拝見しました。実は、さきにいただいたお手紙を、あなたから私への最後のお手紙と心得、私の方も、私からあなたへ差し上げる最後の手紙というつもりで、ああいうお返事を書いたのでした。
そういうつもりでいましただけに、こんどまたお手紙をいただくことになって、どうお返事したらいいか、考えあぐねたままいたずらに日が経って、とうとうこんなにおそくなってしまいました。

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こんどのお手紙に書かれた私へのご助言やご教示など身に沁みてありがたく存じます。これほど厚情にみちたお手紙をいただきながら、しかもなお「NO」という言葉を口にすることは、非礼を通り越して無礼というものじゃないか、と言う人がいるかもしれません。いや、たしかにいると思います。げんに、この私が当事者でなく、これが親しい同業の友人の場合だと假定すれば、たぶん私は語気を強めてこう言うでしょう。
「一流の文芸雑誌からこんな親切な手紙をもらうなんて作家冥利に尽きる話じゃないか。それを断るなんて、お前、無礼というものじゃないか。いや、無礼どころか、傲慢というものじゃないか」と。
そう思うだけに、こんどのお手紙に対してどうお返事したらよいか、考えがどうどうめぐりをして、つい一日延ばしに延びてとうとうきょうという日に立ち到った次第です。こうなってはもういたずらに逡巡せず、思いきったお返事を差し上げなければなりません。

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両三度にわたるお手紙をいただいて、当然のことながら、「書かなければいけない」という気持はたしかに起りました。しかしそれが「書きたい」という気持までにはどうしてもセリ上ってこないのです。これは私だけにかぎらず、すべての作家は、「書かなければいけない」という一種の義務感だけでは不充分で、それが「書きたい」という内側からの衝動に突き上げられなければ、筆を執る姿勢にはなれないのではないでしょうか。

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私はこれまでたびたび(実にたびたび)スランプに陥ちました。その原因を私は勝手に名付けて「心身脱力症」という病名をあたえました。それは文字どおり、心身ともの何とも言いようのない脱力感です。いったんこの症状に罹ると、頭はおろか、手足を動かすことさえおっくうで、ただ部屋の畳の上にごろりと芋虫のようにころがっているよりほかありません。
ただこれまでは体力がありましたから、この症状から脱出しようと意識的な努力をしなくても(これはかえって無効であることをたびたびの経験のなかで知らされました)いつのまにか自然にそこから脱け出て、また仕事ができるようになったものです。いわばこれも自然の治癒力といっていいものなのでしょう。
しかし、ただいまの私にはその肝心な体力がありません。昨年一年は三つの病院に通ったということを、たしか前々便で申し上げたと思いますが、この三つともまだ完治したわけではありません。それは何といっても老齢による体力の衰えだと思います。げんに三つの病院の三人の医師に効果のあまりはかばかしくないことを訴えると、三人ともまるで口裏を合わせたように「なにぶんお年がお年ですから」という簡潔無比な文句が返ってきます。
先日、永六輔の「大往生」という本を読んでいましたら、「医師は八十歳以上の患者に対してはきわめて冷淡である」という言葉があって、思わず微苦笑を洩らしました。

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ここまでいろいろ書いてきましたが、どうもすべての言葉が弁解じみたものになったようで、われながら気が晴れません。むしろ、ここでは「ただいまの私は創作力がすっかり涸渇してしまったので、何も書けないのです」とお答えしたほうが、いっそさっぱりするかもしれません。私自身がさっぱりするばかりでなく、あなたご自身も「それなら仕方がねえや」とさっぱりなさるかもしれません。
しかし、この「涸渇」という言葉を言い切ったあとの私は、いわば自分の“死に体”を見ながら生きるということになります。これではあまりに苦痛ですから、ここでは「涸渇」という言葉はあえて使わず、私にとってはつごうのいい「心身脱力症」のほうを使わせていただきます。
しかし、いまや体力の衰えた私が、昔のように、この「心身脱力症」から果して脱出できるか、それともできないか。それは私自身にもわかりません。ただ脱出のための唯一の必要條件として、体力の回復にはこれからも努めて行きたいと思っております。

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せっかくのこの度のお手紙に対して、またしてもこのようなお返事しか差し上げられないのは、まことに申しわけなく存じます。ただ一つ、あなたのご厚情にみちたお手紙には衷心から感謝こそすれ、何かを裏にふくんだ妙な依怙地から、こんなお手紙を差し上げるのでないことだけは、どうぞご理解下さるようお願い申し上げます。これ以上書いても結局は弁解になってしまいそうですからこれで終りにさせていただきます。

私の勝手をおゆるし下さるよう再度お願い申し上げます。

平成八年五月十日             敬具