「みんな笑い飛ばす」

みんな笑い飛ばす

佐藤洋二郎 2005年4月号「群像」より                         

 風は冷たそうだが冬晴れのいい天気だ。ふだんは小屋の中でまるまっている七歳の牝犬も、今朝ははやく散歩に連れて行けとお茶をすするこちらをみつめている。待て、待て。 これを飲んで温まってからだ。 おれはおまえみたいに毛皮を身につけていないからなと言ってやった。 こちらがつぶやいているのを見て、 犬は自分になにか言われていると気づいたのか尻尾を振り続けている。
 
おまえは単純でいいなあ。 恐ければ尻尾を巻くし、うれしければ尻尾を動かす。それに比較すれば人間は哀しくてもむりに我慢するし、 つらくとも力なくわらうときがある。 おまえみたいに正直に生きられないのが人間なんだ。 なあ、と声をかけると四肢を踏張って背伸びをし、ついでにおおきなあくびをしゃあがった。
 
のんきなものだ。 七年も鎖につながれ生きているが、 ちっとも孤独じゃなさそうだものなあ。それに引き換えるとこちらは心の中を吹き抜ける風がある。もういいおっちゃんなのにだ。

つくづく才能がないなあとおもう。それで日々悶々としているのだが、 小説を書き出してめったに心が晴れることがない。 一作でいいからいい作品をものしたいと念じて机の前に座っているが、 無為な時間が流れていくだけだ。

犬にぶつくさと言葉をかけていると電話が鳴った。 相手はどうだと訊いた。まあまあかなあとつよがりを言うと、こちらはさっぱり不景気で借金ばかり増えていき、 そのうち一家心中か、 夜逃げということになるかもしれないとわらった。小泉はいったいなにをしているんだと怒り、 それから二世、三世の議員や学者になにもできるはずがない、と八つ当り気味に文句を言った。 こちらも相手の気持ちがわからないわけではないので、 そうだなとあいづちを打ってやり、 苦しいほうが生きる手応えや緊張があるから、 逆にいいかもしれないと茶化すと、 もう限界のところまできているよと重い言葉を吐いた。

わたしは以前彼らと土建会社をやっていた。そこでいろいろな経験をさせてもらった。 あの時期に多くの人たちと接したからこそ、 小説家の端くれになれたのだとおもうことがある。 そして羽振りがよかったときもある。若かったこともあり、なまいきで人の心の痛みに気づかなかったこともあった気がする。

もともといいかげんに生きているわたしの中には、 人生をなめているところがあり、 どう生きたってたいしたことはないという気持ちがある。 ものごとにまじめに取り組む姿勢がすくない。

人生はどこでどうなるかわからないというのがこの頃の実感だ。 おおきな負債も抱えたし、 人様に足元を掬われたこともある。 多少は起伏のある人生を送っている気もするが、 いまは才能がほしいと願うばかりで、 哀しいかな肝心なその才能がない。

知人は一か八かで建設ラッシュの中国に行って、 仕事をやるかもしれないと言って電話を切った。 みんなたいへんだ。生きるということはしんどい。 ぼんやりとたあいないことをかんがえて、 小説など書いているのが恥ずかしくなるときがある。必死に生きるというところから、 いちばん遠い位置にいるし、 才能もないのにあがいている姿は滑稽すぎるのではないか。

そういえば八木先生の奥様から電話がありましたよ。妻は八木義徳さんの未亡人からたまに電話をもらい、会ったこともないのにふたりでおしゃべりをしているらしい。こちらはへぇーとおもっているが、 電話をいただいたときには、 わたしはいつも留守だ。

八木さんも著書の中で、 文学はなにも差別はしないが、 唯一、 才能において差別すると書いていたなあと思い出した。なにかおっしゃってたと尋ねると、 いい人だと言われていましたよと教えてくれた。 どうだかなあ。 わたしはだまっていた。

犬はじっと座ってわたしを見続けている。 しようがねえな。 行くか。 わたしは重い腰をあげた。 最近は息子が拾ってきた犬と仲がいい。 きのうの夜も寒そうだったので、家人が眠っている間に家の中に入れてやると、 ソファーの上に座り、 わたしとふたりで深夜の報道番組をながめていた。 だが朝起きてみると小屋の中でまるまっていた。

どうやら妻に追い出されたらしい。 うらめしそうにわたしをみつめていた。 誰だって温かいとこが好きなんだよな。 でも我慢するしかないな。 たまにおもいつきで機嫌をとっているこちらとはちがって、 彼女のほうが毎日おまえを散歩させているのだ。 どっちの言うことをきいたほうがいいか、 かんがえるまでもない。 わたしが自嘲気味にそう言うと、 犬は視線を落としただけだったがうなずいたように見えた。

近くの田圃を歩いた。 なにも遮るものがない中空を冬の風が暴れていた。大を離してやると、 彼女は枯れた田圃を突進するように走りまわった。 もういい歳だが元気だ。おれもがんばるさ。 それしかないもんな。 犬は遠くで立ち止まり、 なにをしているんだというふうに怪訝な顔でこちらをながめていた。 それから顔をあげて小鼻をひくつかせ、心地よさそうに春の匂いを嗅いでいた。