津村節子
八木先生に初めてお目にかかったのは、というよりこちらからお姿を拝見したのは、中央線東中野の「モナミ」という喫茶店で毎月開かれている「文学者」の例会であった。「文学者」は丹羽文雄先生が主宰されている雑誌で当時は同人誌として同人たちは一応同人費を出してはいたが、その殆どの費用を丹羽先生がお出し下さっていた。
メインテーブルに火野葦平、石川達三、井伏鱒二氏、尾崎一雄氏らと並んで、八木先生のお姿があった。吉村昭と私は末席に坐っていたが、吉村がはじめて出した「青い骨」が掲載され、合評会で思いがけなく好評であった。わけても八木先生から激賞と言ってよいほどのおほめをいただき、入会して間もないかれは大層感激した。七月号に続いて十一月号に発表した作品も好評で、私も「文学者」に入会したいと思った矢先に休刊になってしまった。二人ともこれからと意気込んでいた時で、吉村も落胆し、私も目の前が昏くなったような気がした。
私は吉村昭が文芸部の委員長をしている学習院大学の文芸雑誌「赤繒」に作品を出していたが、昭和二十八年に十号が出た時それを持って八木先生のお宅にうかがった。合評会に出席をお願いするためであった。京浜線の鶴見駅からバスに乗り、寺尾のお宅をたずねあてると借家らしい二階家で、その二階が仕事場になっていた。はじめ私は夫人を先生のお嬢さんかと思った。ういういしい可憐な方であった。先生は敗戦の前年中国に出征中に「劉廣福」で芥川賞受賞の通知を受けられた。前夫人とお子さんは、戦災で亡くなられたという。
先生は快く学生の雑誌の合評会に出席されて個々の作品について丁寧に批評して下さった。吉村がわずかばかりの謝礼ののし袋を差し出すと「学生からそんなものは貰えないよ」と大きな手を振って帰って行かれた。
私たちは今思うと本当に厚かましさに恥じ入るが、その後屡々先生のお宅にうかがうようになった。暮らしぶりはあまり豊かそうには見えないのに、原稿依頼に来た編集者に
「せっかく来てくれたのにすまないが、あなたの雑誌の読者に喜んで貰えるような小説を書く力はないので」
と深々と頭を下げてあやまっておられた。そんな場面に出会ったことはその後にもあり、夫人は
「いつもこれなんですよ。少しでも娯楽性のある雑誌からだと、どんなに原稿料がよくてもことわってしまうのです」
と言っておられた。帰路バスの中で「先生のお宅にうかがうと、すがすがしい気持になるわね」と私は言った。吉村が後年生活が苦しかった時代に、週刊誌から芥川賞直木賞候補作家たちに、その時々に起った事件をテーマにした小説の依頼が持ち込まれた時、月に二回で一回分の原稿料がサラリーマンの給料の二倍ほどあったのに迷いもなくことわってしまったが、文学に向う姿勢は八木先生の影響を強く受けていることを感じた。
昭和二十八年、私は学習院短期大学を卒業し、その年の秋に上野精養軒で吉村と結婚式を擧げた。披露宴に八木先生御夫妻に出席をお願いし、先生は、これから苦難の道を志す若い私たちにあたたかい励ましの言葉を下さった。