「八木義徳のモラル」

八木義徳のモラル
                   
佐藤洋二郎氏

     
八木義徳という作家を知ったのは、二十七、八年も前のことになる。当時のわたしは、お茶の水のアテネフランセに通っていた。語学を勉強しようとおもっていたのではない。その前に簿記学校に通い、会計士か税理士になり、郷里に戻って開業しようとしていたが、子供の頃から小説家になりたくて、そのおもいが断ち切れず呻吟していた。

郷里には目を患い、失明状態の母親がいて、弟妹はまだ慶応大学に行っていた。父親をはやくに亡くし、わたしたちは母親の後家の踏張りで、かろうじて生きていた。生活も大変だった。早く戻り、彼女を少しでも楽にさせたいという気持ちがあったが、小説を書きたいという気持ちを、拭い去れないでいた。 どう生きていいかわからなくなり、簿記学校も休み、近くの語学学校に潜り込み、不安な気持ちを少しでも解消しようとしていたのだ。そこで「風景」の編集者をやっている女性と知り合った。なにかの拍子におしゃべりをすることがあり、だまっ
て聞いていた彼女が、あなた、小説家になれるわよと言ってくれた。

わたしは半信半疑だったがうれしくなった。一度だけ小説を書いて、それで駄目だったら諦めようとかんがえた。そして数か月かかって短篇は書いた。それを同居していた妹が読んでいた「三田文学」に、原稿を募集していたので持参した。やがて何ヵ月近く経ったある日、編集室から連絡があり、書きなおせと言われた。手直しして持って行くと、また何ヵ月かしたあとに掲載された。

若かったわたしはもうこれで小説家になれるとおもい、簿記学校もやめ、へたな小説ばかり書いていたが、そのうち「三田文学」が休刊になり、書く場所がなくなった。途方にくれたが、もうやるしかないなと決心した。そのことを母親に告げると、失明状態にあった彼女に泣かれた。わたしはそれを振り切った。いまでも思い出すと心がひりひりと痛む。ろくに働かなかったのでお金もなくなり、生活はすっかり困窮し、立ち読みや古本ばかり買っていたが、顔見知りになった「風景」の編集者のおかげで、書店に行けばただでくれるその雑誌は毎月読んだ。

そこに自分の知らない作家たちがいて、文学の香りがする「風景」がいっぺんに好きになった。いまも三分の二は持っている。創刊号から揃うのがわたしの夢だ。そして八木義徳や野口富士男や和田芳恵を知った。いい勉強をさせてもらったとおもっている。八木義徳はそれ以来のファンだ。

とりわけ彼が文学を目指す人間には、「老若、男女、身分、階級、年齢、美醜、善悪の差別はまったくない」と言っている言葉には心を震わされた。世の中の規範は公明正大にやることだが、八木氏はそれを見抜いていた。そして「才能とは忍耐だ」と言ったが、その言葉を書き続けていく間は、決して忘れないようにしようと決めている。