「室蘭市葬」

室蘭市葬

藤本仁 

故八木義徳氏の室蘭市葬は十二月十七日、午後一時から『セピアス花壇』という市内ホテルの大広間で行われた。
十六日の午後に室蘭のホテルに着いて、翌朝『港の文学館』まで雪の吹ぶく中を歩いていき、八木義徳記念室を一通り見て、事務室でお茶を頂きながら雑談していると、土合弘光さんが車から降りてくるのがガラス越しに見えた。会場まで送ります、という。
「やあ、助かりました。あなた、勤めのほうはよかったんですか」
「構いませんよ。八木先生のためならどんなこともします。それに市葬なんか、めったにあることじゃありませんから」
札幌に住まいがあって、勤め先の室蘭の銀行まで一時間半をかけて車で通ってくるサラリーマンである。銀行勤めの傍ら八木さんの著作や執筆文、関連資料などを集めていて、最近、三百ページ余りの『八木義徳書誌』を出版した。八木さんに関する資料を求められるなど、十数年来途切れとぎれの交流はあったが、会う機会はなかった。

十一月十五日、町田市の斎場で八木さんの葬儀が行われたとき、初めて会った。式場前の出版関係者をはじめ大勢の弔問客でごったがえすロビーで、土合さんが来るはずだが、と入口付近を見守っていると、
「ああ来ました、来ました。あの眼鏡をかけたのが、土合(つちあい)さんですよ」
と、傍らの宮下さんが教えてくれた。宮下さんは、『評伝八木義徳』を出版した静岡で高校の国語教師をしていたという四十代の人で、私とは先生の危篤をきいて駆けつけた病院の待合室で知り合っていた。
土合さんは童顔の面影を残した五十歳過ぎの、長身の人だった。初対面のような気がしなくてすぐ親しく言葉をかわした。もらった名刺を眺めながら、
「あなた、(つちあい)って読むんだってね。わたしは(どごう)と読んでいましたよ。土光(どこう)敏夫さんに次ぐ偉い人と思っていましたからね」
と言ったら笑った。土光さんというのは、かつての経団連の会長で清廉潔白で知られた名望家である。会場のホテル『セピアス花壇』までは、五分もかからなかった。ロビーに一歩入ると、黒の喪装で威儀を正した室蘭市の職員が一列になって訪れる参列者を迎えている。厳粛な雰囲気が伝わってきて、思わずネクタイをしめなおした。
私は喪の花章を上着に付けるように渡され、二階の控え室である和室に案内された。どうやら正子夫人と並ぶ遺族の代表にされている。土合さんが側にいてくれるから心強いものの、遺族でも親族でもない私は場違いという思いにとらわれている。いま見えている親族というのは喪主の正子夫人に、その妹さん、その息子さんの三人である。夫君の代理参加と見える息子さんはまだ三十代の年齢のようだった。
かねて一度は訪れておかなければならない、と思っていた先生の故郷、室蘭だった。この街に『港の文学館』が出来ており、さらに十月、先生が米寿を迎えるのを記念して『八木義徳記念室』が新たに設けられたことは知りながら訪ねる機会がなかった。町田斎場での通夜の席で、正子夫人が、参列者一同への挨拶の中で、
「ぜひ、いちど見に行ってやってくださいませ」
と涙ながらにすすめられた。そのとき、心決めした。同じことなら、1カ月後に室蘭で行われるという市葬に合わせて行くほうがいい。数日後、正子夫人に電話すると、大変よろこんで、十七日のホテルの予約はとっておく、そこは安いところだが、ヨシノリが定宿にしていた海に面したホテルで、私たちも泊まるから、と返事があった。夫人は土合さんにも、そのことを連絡されたらしい。土合さんからは、もし札幌に泊まることがあったら食事を一緒にしましょう、と便りを受けていた。
やがて、私たちは一階大広間の葬儀会場の最前列に案内された。前面一杯の舞台に先生の写真を中心に掲げた花の祭壇が設けられているが、これがなんとも豪華だ。蕾のままの花、開いた花、さまざまな種類の花を植え込んだ中で、正面の、緑の葉を敷きつめた中に、黄菊の花を点々と埋め込んで、広げた書物のようにみせるデザインには驚いた。東日本一、という最近、市内に架かった白鳥大橋も背後に描かれて華やかさを添えている。右端には夫妻が寄りそって立つ大きな写真がある。中央の「天皇陛下」という墨文字は町田での葬儀の祭壇中央にも掲げられていた。金一封(二万円)と花籠の下賜があったからだ。先生は『劉廣福』で第十九回の芥川賞受賞しているのをはじめ、七十七年には『風祭』で読売文学賞、九十年には菊池寛賞を受け、また八十八年には芸術院恩賜賞を、八十九年には芸術会員
となっている。そのときの受賞牌や賞状は祭壇の前に置かれて風格と重みを加えている。市内の装飾専門店が手がけた。生涯に一度の名誉だと市からの予算枠を大きくこえる費用で徹夜をして造りあげたのだという。
生演奏のピアノ曲が流れている。ベートーベンのピアノ協奏曲四番は先生から葬儀のときに流してほしいと頼まれていた曲で、通夜、葬式のときにもテープの曲が使われていたのだった。テープは自身がテレビ番組から吹き込んでいたものだった。最前列に夫人、妹さん、その息子さんが座り、室蘭出身で芥川賞受賞作家の三浦清宏さん、作品社の高木さんが並んでいる。高木さんは先生の臨終の前日まで『われは蝸牛に似て』の校正で病床に詰めてダメを押していた編集長だ。先生が書くことになっていた「あとがき」は夫人が書き、逝去後一カ月もたたぬ間に出版されてこの市民葬でも全員に配られることになっていた。北海道新聞東京支社の女性記者、谷地さんは右隣だ。『海明け』を日曜版に連載したのもこの新聞で、古くから先生と繋がりが深かった。谷地さんは生前の病床を見舞うのはもちろん、
通夜、葬儀の席でマスコミへの連絡係のようなことでこまめに飛び回っていたようだ。集まった参列者は三百名ばかりか。振り向けば市会議員、市の要職にある人、企業の代表者など錚々たる人たちが厳粛な面持ちで座っている。一人の作家、名誉市民の死を悼むために市民代表が挙げて集まった、という感じだ。
新宮正志市長は町田市斎場での通夜にも出席して町田市長と並んで弔辞を贈ったが、主役であるここではフロックコートの礼装である。
式辞を述べた。八木さんがいかに室蘭の風土や景色を愛してきたか、そしてまた八木さんを市民がいかに敬愛してきたか。また測量山という二百mの山の中腹に文学碑が建っていてそれは室蘭中学が舞台になった長編小説『海明け』の中から一節が採られている文学碑であることなど。
私は昨夕、『室蘭文学館の会』の会長である樋口游魚さんに誘われて測量山の頂上に登った。湾や製鉄所などのある市内を眺望し、帰りに八木さんの文学碑をみせてもらっていた。樋口さんは初対面だったが、『港の文学館』の維持発展に熱心であり、『八木義徳記念室』の設立では中心的役割を担った人と教えられた。情熱的な八木ファンであると感じた。樋口さんは、車のハンドルを握って市内を案内しながら、ここの奧が八木さんの生家があったところであり、ここが実父の田中医院長の勤めていた病院であり、この道を通って田中医院長は八木さんの母君に会いにこられていたと教えた。薄暗くなっていたのと複雑に道が入り組んでいて、車の中からはよく分からなかった。剣道の選手であった八木さんが警察署の剣道の猛者を負かしたという武勇伝も残る室蘭中学だが、もはや校舎も無くなっていて道路が通っていた。
その樋口さんが、マイクの前に立った。『八木義徳記念室』ができたのは、市当局の協力もさることながら『港の文学館』のために先生から芥川賞の正賞の硯をはじめさまざまの賞の記念品、生原稿、蔵書や資料となるものなど二千点に及ぶ貴重品の寄贈をうけているからであるという意味のことが述べられていた。この資料を得たことは、土合さんたち「文献所蔵目録」を兼ねた書誌の作成に携わってきた人には大きな恩恵で、それまで発行されていた『八木義徳全集』にも載せた書誌をより完全なものとするのに役立ったという。中央に大きく飾られた遺影は、黒っぽいシャツの上にうす色のジャケットというラフな服装で先生が歯を見せて明るく笑っている写真で、葬儀のときのものと同じである。何時、どんなときに撮られたものかきき逃したが、まことに美しい肖像写真だった。そして先生の人柄を伝えるのに相応しい絶好のポートレートだった。この写真から先生の肩を揺り、顔をあげて笑う男らしい笑い声が聞こえてくる気がするのである。
先生からの手紙には末尾に「呵々」と書かれたのがあった。冗談めいたことを書いたあとで、その言葉が添えてあ
る。呵々大笑の「呵々」であった。豪快に笑うのが先生だった。口を大きく開いての哄笑、その意義と効果を教えられたのも先生からだった。
「笑ってしまいなさい、大きな口を開いて笑い飛ばすんだよ。たいていのことはそれで吹き飛ばされてしまうから」
そんなことを言われたのは、家庭内の悩み事について先生に聞いてもらった後のことだった。 いつか、先生は、
「ぼくはこんなイカツイ顔をしているだろう。ときどき会合なんかで、新国劇の辰巳柳太郎とまちがえられてねえ」
と、照れ笑いをしたことがあった。辰巳柳太郎は「国定忠治」や「王将」が当たり役の名優だった。眉がこく、頬
骨のとがった顔はたしかによく似ているのだった。写真をみていると、先生と出会ったいろいろな場面が思い出された。先生にはテレビドラマ化された長編小説に『海明け』がある。室蘭中学在学中の剣道部の後輩がモデルの小説で、ドラマでは北大路欣也が演じた。小説は一九七七年、北海道新聞の日曜版にほぼ十カ月にわたって連載された。
海軍兵学校生徒となる主人公のことを調べるために広島、呉に取材にこられたのは前年の七六年だった。海軍関係の資料を求められたので私は、図書館に案内した。館長室に案内されたが、本箱に某有名作家の色紙が飾られているのに目をとめると、
「いやだねえ、こんなものを残して」
と苦々しい顔をしたのだった。ある若い作家の生家を四国を走る観光バスのガイドが紹介しているのを知ったときも、
「いやだねえ」
と言った。それは、先生の言葉を使って言えば、「ゴウマン」ということになるのだった。このとき以外にもなんども聞いた。
「いやだねえ、ゴウマンだねえ」
フェリーで呉の桟橋から江田島に渡り、第一術科学校(元兵学校)の校長室を訪れているが、そのとき、校長に、私を、
「私の若い友人です」
と紹介されたことも忘れられなかった。上下の関係ではなく先輩、後輩の関係でもなく平等対等の人間として私を扱っている。「友情」で結ばれた関係というものは最高に美しいものにちがいなかった。
この取材行に私はなんの役にも立たなかった。たった一つ、私に役割がめぐってきたのは、先生持参のテープレコーダーが動かなくなったときだった。
「ぼくは不器用で、機械がまるでダメなんだよ」
と任されたのだった。見てみるとプラスと、マイナスを間違えて電池が入れてあった。動きだすと、先生はまるで奇跡が起こったように喜んだのだった。いま八木さんの文学碑が測量山の中腹に建てられている。ふだんの言とは大きな矛盾である。文学碑を前に樋口さんに訊ねると、案の定、最初は頑として許されなかったという。旧室蘭中学の同窓生が幾度も懇願したのだそうだ。中には先輩もいる。あまり断り続けると、「八木はゴーマンになった」と受け取られることをおそれたのだろう。とうとう建てることになったのだった。碑文は次のようだ。
『この二百メートルほどの高さをもった小さな山の頂上は、中学時代の史郎にとって、「もの思う場所」だった』
会場では文芸家協会理事長代理である吉村昭氏の弔辞の朗読が行われていた。『大きな掌』と題されていた。町田市の斎場でも葬儀委員長として挨拶をしたが、ほぼ重なる内容で、戦後間もなくの名作、『私のソーニャ』に感動した吉村氏が、二十四歳のとき自分の書いた作品を読んでもらうために鶴見区馬場町の自宅を訊ねたことを語っていた。
「先生は真摯に話をきいてくれ、丁寧に作品評をしてくれるのが常でした。そのときから八木さんは師となったのです」
ある日鶴見の家を伺うと、三十歳くらいの娯楽雑誌の若い編集者が訪れていて、しきりに先生に心酔しているようなことを言い、短編小説を依頼する。しかし先生は、
「自分には君の雑誌に載せるような小説を書く才能はない。申し訳ない」
と頭を下げて断ったことに吉村氏は感動する。先生は文名は得ているものの、借家住まいで母君と夫人の三人暮らしの生活は決して楽ではないということを知っていたからだ、と述べていた。
思い出すことがあった。ほぼ同じ時期に鶴見の家を訪れているからだ。木塀を巡らせて風格はあるがかなり古い二階家で、先生の書斎は二階の二間続きの和室だった。玄関から直ぐの階段を上がっていくが、入り口の鴨居がなぜか低く出来ていて、訪問客はよく頭をぶつけた。書斎の先生が
「気をつけて」
と声をかけるが、それでもぶつけてしまう。
「来客は、部屋に入る前に、お面、を一本とられる仕組みになっているんだ」
一緒に訪れた口の悪い仲間は、そう言って笑った。それは舞い上がったブランコが勢いをつけて落ちてくるのを避けるのが難しいように、あっという間に頭を打っているのだ。むろん、私も額を打ったことがあった。吉村氏のいう娯楽雑誌の編集者もすでに頭をぶつけて「参って」いたのではないか。先生から原稿を断られれば、二度目の痛打で、さらに「参った」だろう。
訪問者は、きまって正子夫人からお茶の接待をされた。また先生との話の間にも入って、適当な相槌をいれながらの、よき聞き役を果してきた。
「わたしはチェーホフの『可愛い女』の中の女性のようになりたいの」
と夫人からきたことがあったが、先生より十八歳若い夫人は私の知っているどんな女性よりも慎ましく愛らしく思われた。そんな夫人は、ある日、「娯楽雑誌」の編集者が訪れているときに、先生が原稿の注文を断っているのを、二階にお茶を運ぶ階段で聞いてしまう。
「驚いて、お盆の湯飲みががたがた震えて止まらなくなってしまったの」
そう述懐されたのを覚えていた。いちばん辛い思いをしていたのは夫人だったろう。吉村氏の弔辞は十五分に及んだが、朗読も巧みであきさせなかった。町田での葬儀のときと同様、宗教色がないだけ十分に関係者の追悼の言葉を聞くことができた。
続いて先生の作品の一部が朗読され、最後に正子夫人の挨拶があった。短い中に次の言葉があった。
「義徳は世間という銀行に億という心の貯金を残してくれました」
先生と知り合えたことが金銭に代えがたい財産となっている者は多い。私の知っているかぎりでは町田市の斎場では驚くべき多くのファンが集まっているのを見た。私がかって住んでいた川崎市では先生は文学賞の選考を長年勤めていたが、古くから薫陶を受けてきた友人のK君はいま成人学校の小説部門の講師役をしていると聞いた。孫弟子というような存在が育っているのだ。
最後は遺族から順に白いカーネーションが渡されて献花をするのだった。式が終わると私はまた土合さんの車に乗った。昨夜泊まったホテルに預けていた鞄を受け取って、幸町の「ホテルオーシャン」にチェックインした。こじんまりした北の海の見える部屋が割り当てられていた。
午後五時から八木さんのファンが、芳川庵という料理屋で『八木正子さんを囲む会』を開くことになっている。しばらく雑談したあと、また土合さんに連れていってもらった。