昭和という時代の象徴を描く
佐伯一麦
私がはじめて八木義徳氏にお目にかかったのは、昭和六十二年の三月末、川崎駅に近い小料理屋の二階の座敷でだった。八木義德全集に添えられた年譜を見ると、八木さんは七十五歳、私は二十七歳だった。
その日は、「かわさき文学賞受賞者の集い」が、選者である八木さんを囲むかたちでもたれていた。
席上、「必ず出身地も言い添えて下さいよ」と八木さんに念を押され、その日集まった二十人ほどの歴代の受賞者たちは、一人ずつ自己紹介を始めた。川崎という土地柄、工場で働きながら小説を書いてきたという者が多かった。その各々の話に、八木さんは、真剣に耳を傾け、幼い子供のような好奇心の固まりとなって質問を投げかけ続けた。その姿に、作家とはかくあるべき、と思い入ったことを今に忘れない。
自分の番になり、私は、出身地は八木さんの故郷である室蘭とは、明治維新後の伊達藩の北海道移住で因縁深い仙台であること、電気工をしながら小説を書いていることを述べてから、文芸誌の「新潮」に八木さんの新著『命三つ』の書評を書かせていただいたことを申し添えた。八木さんは、一瞬耳を疑う、といった様子で、私をじっと視た。次第に事情が飲み込めてくるにつれて表情が柔らぎ、「そうかァ、君が佐伯一麦かァ」
と大声を発すると、笑みを浮かべながら握手を求めてこられた。骨太な男らしい手だと感じた。それ以来、度あるごとに、若き日剣道選手として鍛えたという大きな手を差し出されての、心情の籠もった「八木流」とでもいうべき独特の力強い握手をされることになり、四十八歳という年齢差を越えた励ましを受け続けることとなった。(ちなみに八木さんも私も亥年の生まれである)
八木さんは、自分の文学開眼の書は、有島武郎の『生れ出づる悩み』だと常々言っておられたが、私にとってのそれは、十八のときに読んだ八木義德『風祭』である。ラストの主人公の放尿の清冽な響きを確かに聴き取った私は、そこに描かれている「人生」というもののとば口に立っている自分を強く意識させられた。そして、無性に、自分とは何者かということを追求する小説が書きたい、と思った。
私が三島由紀夫賞を受けた折に、対談をさせていただいた席で、八木さんは、「自分は自分を描くことによって自分が生きている時代の象徴になり得ると思う」というトーマス・マンの言葉を引いてから、「これはすごい自信で、僕にはとても、口が裂けてもそんなことを言うことはできないけれども、『わたくし』を描くことによって時代思潮のシンボルになり得るという言葉は、言葉として非常に大きい力を持っていると思う」と付け加えた。
代表作である『遠い地平』において、八木文学は、「私」という主人公の前半生を描くことによって、昭和という時代を生きた者の象徴を見事に具現していた。そして最後の作品となった「浮巣」においても、金融業に赤帽も営むという精力的な主人公の生活ぶりを、あの好奇心に満ちた目でよく調べ、具体的な細部を描き出して、バブルの時代の一人の典型的な人物像とすることに成功していた。「落日は地平に近付くにしたがって大きさを増し、朱金色の最後の輝きでまわりの大気をぶるぶると震わせながら、王者の終焉のように悠々と沈んで行った」(「北満の落日」)
八木さんの訃報を知らされたときに、私は、枝を真っ直ぐ天空へ伸ばしたポプラか欅のような一本の裸形の巨樹が、落日の中に静かに倒れていく光景を思い描いた。