八木義徳さんと寅次郎 ~1982年12月5日発行 「寅」3月号より転載 ~
山田洋次氏
ある新聞社の企画で、作家の八木義徳さんと対談することになった。八木さんといえば戦前の芥川賞作家、私小説文学の雄である。この私とどうつながるのかと不思議に思ったが、新聞記者の説明では対談のテーマが“一筋に生きる”というようなことで、八木さんは私小説一筋、私は寅さん一筋で共通するものがあるのだそうだ。八木さんの一筋はわかるけど私の方はどうも一筋というような気分はしないのだが、八木義徳という人に逢えるチャンスなどは滅多にないだろうから、とお引受けして指定された場所に出かけた。
明治生まれの八木さんは、もう頭も白く、堂々とした体躯の持主、少し早目に来られてビールを呑んでおられた。きちんと坐り直されて、丁寧に私に挨拶されたところでテープレコーダーのスイッチが入り、学芸部のデスクである年配の記者が、それではボツボツと対談の始まりを告げたが、何しろ初対面だし、私も少々固くなっているし、すぐに会話が始まるわけにはいかない。そこで記者が ― まず八木先生の方からなにか……先生はお若い頃から今日に至るまで、私小説というものにこだわり続 けてこられた、その辺のお気持をひとつ。といったようなことをしゃべったところ、八木さんが突然大きな声を出された。
― ちょっと待って下さい。今あなたはこだわるとお っしゃったが、私はちっともこだわっていやしません よ。私は好きで私小説を書いているのです。こだわる という表現はあてはまりません。
ちょっと慌てた記者が言い訳めいたことを云ったが八木さんは承知しない。こだわるという表現にそれこそこだわって、こだわるという言葉の意味を説明し、逆説的に言葉を使うのは今日の流行だけれども、いやしくも活字をもって職業とするあなた方がそんな軽薄なはやり言葉を使うべきではない、と諭される始末。閉口した年配の記者は不用意な言葉を吐いたことを詫まり、次のように云い直した。
― おふたり共、この価値観が多様化した時代にひとつの事を追いかけてこられた……。
ここで八木さんはまた大きな声を出された。
― 待って下さい。価値観というような言葉をそう気安く使われては困る。それは人生をどう見るか、社会 をどう考えるか、という思想にかかわる言葉ですよ。しかし今あなたが云いたいのはせいぜい好みといった 程度のことでしょう、そんな時に大袈裟に価値観などという哲学用語を持出すのはやめて頂きたい。そういう具合に哲学の用語、文学の言葉を乱用することによって日本人の思考はひどく混乱しているのです。
というような論旨で、八木さんは暫くの間ジャーナリズムのあり方について批判的に弁じられた。当分は対談にはならないのだが、云われることは実に筋の通った正論で、成程これが文士というものだな、と私は感嘆しながら八木さんの頬骨
の高い横顔を眺めていたものである。まだ正宗白鳥が健在だったころ、某雑誌社
が小林秀雄との対談を企画し、ふたりを料亭に招いての冒頭、編集長が
― 今夜は正宗先生に女の話でもして頂こうかと思って、と切り出したところ、小林秀雄が烈火の如く怒って編集長に滔々と説教をはじめ、結局対談は取やめとなり、正宗白鳥は遂にひと言も発さなかった、という有名な話を私はふと思い出したりしていたのだが、もちろん八木さんはそんなに激しく怒られたのではない。数十分後にはようやく対談らしい形をとるようになったのである。
私もまた、寅さんにこだわっている訳では全くない、という点では八木さんと同感なのであって、八木さんが自分という人間に興味を持ち、自分を眺め続けることに飽くことを知らずに今日まで私小説を書き続けてこられたように、私は車寅次郎が好きで、興味があって、彼の事を想うと楽しいから飽きることもないままに十三年からのつき合いとなってしまった次第である。
八木さんは、大変恐縮なことに、私に逢うにあたって色々私の経歴を調べられ、その前日には寅の故郷となっている葛飾柴又の帝釈天まで足を運ばれ、あの辺の風景を見て来られたらしい。そして、探偵じゃありませんが何故満州育ちのあなたが「男はつらいよ」という作品を作るようになられたかを推理して見たんですけどね、と前置きをされて次のような主旨のことを話された。
八木さん自身も北海道という大陸的な土地で育ち、青春のある時期を満州で過され、そこでの出来事を何編かの優れた作品に残されている。だから私が育った大陸のもっている、乾いた空気、カラッとした人間関係についてはよく理解できる方なのである。だから、八木さん自身がそうであったように、少年時代から本を読んだり、大人の話を聞いたり、または教科書を学んだりする中で、例えば算数の教科書に出ている挿画に鎮守様の森や火の見櫓や汽車のトンネル、小川に流れる清らかな水、その中に泳ぐめだかや鮒を見る中で、内地(北海道の人は今日でも本州のことをそう呼ぶのだが)への想い、日本という国のイマジネーションをかき立てながら私は育ったに違いない。きっとそのイマジネーションの中に、満州のような植民地には決していなかった優しい田舎のお婆さんとか、裏長屋の御隠居さんとか、気の強いおかみさんとかにまじって、おっちょこちょいでお人好し、向う見ずで喧嘩っ早くて、矢鱈に口は悪いが腹の中は空っぽ、という落語の熊さん八っつぁん的人物もいたのだろう、そしてその男が車寅次郎として具体的な型を持つにいたったのではないか― と、まあそんな風に八木さんは言われたのである。あるいは云い当てられたのである。
私もまったく異論のないところであって、寅さんの世界、あるいは葛飾柴又の「とらや」の世界は、いわば私にとって夢のような、または憧れのようなものではないかと思っています、という風に八木さんに答えたところ、八木さんは大きく頷いて、こんな言葉を吐かれたのである。
― そうでしょう。ですから私はあなたの「男はつら いよ」という作品はあなたの極めて特殊な内面を描いているのであって、私小説という言葉に対して私映画 というのがあれば、「男はつらいよ」は私映画だと思 いますよ。
私小説の大家にそんな風に云われて、私はすっかり驚いた。寅さんという映画は少しでも大勢の人に楽しんで貰いたい、判り易く、気持の良い映画でありたい、と願いながら作ってきた作品だし、もし映画をいくつかのジャンルにわけるとすれば、これはもう大衆的娯楽作品なのだ、というように考えていたのに、八木さんはその正反対の表現をされたわけである。
でも、何が大衆娯楽なのか、なにが芸術なのか、あるいは喜劇なのか 悲劇なのかということだって作り手がきめることではなく、受け取り手である観客が判断することなのであって、私がいくら大衆的な作品だと頑張ってみたところで、受けとる人によっては極めて特殊な私映画だということになってしまうことだってあるだろうし、ひょっとしたらその方が遙かに正確なのかもしれない。
もちろん、八木さんの指摘が心外だとかいうことではない。私はむしろそう云われて、なる程そうだったのか、と気づかされ、眼を開かされた思いがしたのである。考えて見れば、自分で脚本を書き、俳優を決め、大勢のスタッフと相談しながらひとつひとつのシーンを、あるいはカットのポジションなりアングルなり、またその中での俳優の演技のひとつひとつを納得しながら作っていく映画というものが、結局は自分の世界の表現にならざるを得ないのだろう。つまり、その仕事に誠実であればある程、自分自身の内面世界が画面に現われていくものなのだろう ― というようなことを、私は八木さんと楽しく語った、というより八木さんのお話を聞いた後での帰りの道すがら考えた次第である。
終