風祭忌

風祭忌

山本つぼみ

作者の山本つぼみ氏は、昭和7年厚木市生まれ。厚木東高校在学中に師・八幡城太郎氏を知り、昭和28年句誌『青芝』創刊時より同人として参加。八幡城太郎氏没後、一時『青芝』作品の選を担当。 著書に『評伝八幡城太郎』『風棲む町』『笛童子 青柳寺に眠る文人たち』、句集『青麦』『落暉』『峰』『刻』。生前、八幡城太郎氏は年一回青柳寺で句会を催していたそうですが、山本つぼみ氏はその会で八木義徳と知り合ったそうです。

忌に集ふ落合界隈冬残し

風祭忌の寺町の小六月

雪沓をはろけきものにして忌日

暮早き町に面影めくネオン

風祭忌のおのがじし冬の貌

 町田の山崎団地をぶらりとお訪ねしたら、笑顔で迎えて下さる筈の八木先生を失って、早くも一年という、「風祭忌」の御通知を頂いた。昨年新聞で亡くなられたことを知り、駈けつけた朝の初冬のたたずまいがよみがえって来る。それは御生前一度も足を入れられなかったと聞く新しいお住いの団地の一室の、白布の下の先生と無言の対面をしたことである。晴れた高階の窓の外に丹沢連山、阿夫利嶺が美しい午前であった。

八木先生が一年に一度俳句を作る日とは、わが師八幡城太郎の僧房で開かれる「たけのこ句会」の日のことである。今は亡き師城太郎について語れば、拙著「評伝八幡城太郎・平成七年・角川書店」以外にも山程のエピソードがあるが、八木先生がいつ頃から「たけのこ句会」に出席されたかは定かではない。ただ昭和四十七年、城太郎膝下からここ相模野の一隅に小さな家を建てたとき、新築祝いに集ってくれた俳句の仲間たちの中に、八木正子夫人も居られたことから、たけのこ句会への出席はそれ以後のこととしても当時から交流のあったことに
間違いはない。

城太郎は自伝的創作の中で、大学時代シンパとして捕えられたことを記している。『ある事件に連坐して私は八日間を薄暗いところで過した。ある有力者に依って二十九日ゐなくとも済んだが、その人の宏壮な邸宅の一室に待ち構へてゐた父の憔悴しきった姿は後々まで私を苦しめ、ますます父の視野から自分自身を遠ざけるやうにしてしまった。復校がかなっても余り教室には出ず、映画館の闇の中に自分を沈潜させてゐたし、麻雀屋にゐて幾日も家に帰らないこともあった。』評伝は八木義徳の小説「霧笛」を引用して『洗面道具や汚れた下着などを小さな風呂敷包みにして、伊作が四週間ぶりで警察署の表玄関へ出てきたとき、そこのコンクリートの土間の一隅に置かれた古ぼけた木造のベンチに、思いがけず父の姿があった。』『父があの警察署の古ぼけたベンチの端に腰をおろして待ってゐるのは、「アカの息子」であった。』「有力者の宏壮な邸宅の一室で憔悴しきって待ち構えていたのも人の子の父である。」さらに城太郎の八木義徳への思いを評伝は伝える。「昭和五十三年、城太郎の北海道への旅は、土岐錬太郎一周忌、山口隆への墓参に道南を駈けめぐった。そして何としても室蘭への願い、稲月蛍介、樋口游魚らの熱心な招請の結果ばかりでなく、八木義徳その人への城太郎の思いであったかと受けとめられる。〈霧笛聞こゆ八木義徳の叫びとも〉この一句にこめられたその思いは、旅を共にした筆者にも、「落花賦」(城太郎自伝的創作)を掘り出すまで表面的な解釈しか出来なかったのである。「霧笛」「父」「青春」「アカ」「裏切り」「お坊っちゃん」「彷徨」さまざまな思いが交錯する室蘭地球岬の、すべてを覆いかくした霧の中、崖下の灯台からはらわたをしぼるような霧笛が霧の中を這うようにとぎれとぎれにのぼってくる。」

そして「たけのこ句会」があった。「青柳寺第二十六世住職神部宣要上人すなわち俳人八幡城太郎は、主催誌〈青芝〉を通して多くの文人たちと交遊した。

本書は若年より城太郎師に師事した著者が、自らの体験をふまえて青柳寺に眠る異色の文人たちのドラマを綴った追懐と鎮魂の物語である。」拙著「笛童子・青柳寺に眠る文人たち」(平成十二年・角川書店)の表紙帯である。たけのこ句会は例年、青柳寺裏山の竹林のたけのこの最盛期、四月二十九日(天皇誕生日)に開かれた。その中でメンバーに新しく迎える人もあれば、ひそと鬼籍に入る文人もあって、追悼句会ともなったのである。

那須辰造(一九〇四~一九七五)も城太郎と親交のあった文人で、裏山には十六歳で喘息で亡くなった一人息子の墓があった。その小さな墓標には「笛」とのみ刻まれて、逆縁の親の悲しみを封じていた。喘息の発作でその呼吸音が笛のように鳴ったと言う説明に感一入だった昔日である。「青芝」は昭和五十年五,六月号にこの那須辰造追悼号を編み、その直前の四月二十九日の「たけのこ句会」の句会報に〈笛童子若葉のなかに父迎ふ 八木義徳〉ほかを掲載した。一年に一
度俳句を作る八木義徳の追悼句である。

今回「青芝」の姉妹誌として平成九年発刊した俳誌「阿夫利嶺」に連載した「青柳寺に眠る人々」を一冊にまとめるに当って、この表題を「笛童子」としたのは八木先生の句から頂いたものである。もはや先生に言葉でお許しを頂くことは叶わなかったが、拙著第三句集「峰」(昭和六十一年三月・城太郎師没後発行)の跋の中で「句は人が作るものだ。しかし作られたその句によって、逆に作者の人間性そのものが試される。となれば俳句とはまことに怖いものである。」として、「私は俳句の世界には疎い人間である。そういう私のいま假りに選んだ十句が俳句という形式において、果して“詩心”の充分な結晶に成りえているかどうか。が、それがたとえいまは不充分であるとしても、つぼみさんはこの詩心の結晶という難題に、これからも一途に立ち向って行くだろう。私は安心してこう言うことが出来る。」と書いて下さったことから「いいね、いい表題だ」と言って下さるに違いないと。
 
八幡城太郎が好んで用いた号は風斎、「青芝」の人たちは一月四日の命日を風斎忌として、毎年十二月初旬に繰りあげての墓参、追慕の「風斎忌」句会を開いている。この度の「風祭忌」を粗忽者の私は「フウサイキ」と読んで、奇しくも同音となった忌日の両師を偲ぶのである。ちなみに「峰」の中の十句とは掲出の句ほか八句である。

ひと抜けしまま風となる寒疎林

師なき日の苛立ちに寒ひき裾うる

― 2000年11月 ―