「八木展」の題名について
根本昌夫
編集者として近くで過ごしてきて、とても大切なことを学びました。
それは、賢しらな文学理論でもなく、浅薄な生きる知恵でもなく、「構え」についてでした。もちろん、直接に言葉に出して言われたわけではありません。
書くことに対する構え、人生に対する構え、生活に対する構え、知己に対する構え、そのすべてが全くぶれなかったのです。まっすぐに背筋を伸ばして、みながこぞって歩く近道ではなく、たとえ回り道でも自らの足で一歩一歩進む、その姿勢が一貫していました。文学の途の真ん中を、自ら驕らず、孤高に堂々と歩いているように見えました。
あるエッセイの中で、人生の様々な局面で繰り返し心の中で唱えるという言葉を挙げています。
芭蕉の「無芸無才ただこの一筋につながる」、嘉村礒多の「私は宗教によってよりも芸術への思慕そのものによって救われたい」、上林暁の「常に不遇でありたい。そして常に開運の願いをもちたい」の三つです。
これらの護符を唱えながら、「文学」を一生の途とされました。
すべての芸の道は、実から虚へ、虚から象徴へ到る途である。そして芸が一個の象徴と化し得た時、はじめてその芸は「鬼」となるのだ」と。
これは、行住坐臥すべてを文学の修行の途とし、作品の達成を、人間の本質にぴったりと一致させねばならないというもっとも困難な途を選ばれたことを示しています。そのためには、文学がそれ自身の内に持つ「掟」への愛、畏怖、摺伏を具現化しなければなりません。
それを実現する唯一の道が、自らを「文学の鬼」となすことだったのです。芸術至上主義などではなく、全的な求道者としての非情な意思、それが「鬼」なのです。
今回の展覧会の題は、このエッセイのタイトル、「文学の鬼を志望す」しかない、と直観しました。
この題名に対して「根本君、やはり大仰すぎやしないか、正子どう思う、そうか、悪くないか」という奥様の答えも待たずに自答する八木さんの声が聞こえてきそうです。