八木義徳の経歴

八木義徳の略歴

1911.10.21.~ 1999.11.9.
芥川賞作家。北海道室蘭市生まれ。北海道帝大水産専門部を中退後、早稲田仏文科卒。

早大在学中より、横光利一に師事し、1937年「海豹【かいひょう】」で文壇デビュー。1944年「劉広福【リュウカンフ】」で芥川賞を受賞し、その後も、「最後の文士」にふさわしく愚直なほど一筋に創作活動に専念してきた。

[主な作品]

「母子鎮魂」(1948年)
「私のソーニャ」(1949年)
「風祭」(1976年)
「文学の鬼を志望す」(1991年)
「文章教室」(1999年)
「われは蝸牛に似て」(2000年)
など、多数。

[主な受賞]

1977(昭和52)年「風祭」で読売文学賞
1988(昭和62)年日本芸術院恩賜賞
1989(昭和63)年より、日本芸術院会員。
1990(平成2)年菊池寛賞受賞。
1992(平成4)年3月、早稲田大学芸術功労者表彰


土合弘光氏作成による公式年譜(PDF)は、以下をクリックしてダウンロードしてください。
[下記は参考資料] 

1911(明治44)年 0歳
八木義徳は1911(明治44)年10月21日、北海道室蘭市大町(現・中央町)33番地で室蘭町立病院長である父田中好治、母セイの次男として生まれました。父好治は、室蘭ゆかりの作家葉山嘉樹が、小説「海に生くる人々」のなかで描いた、腕の良い外科医でした。

1924(大正13)年 13歳
八木義徳は庁立室蘭中学校へ入学し、剣道に打ち込むようになりました。この剣道部で2歳上の高松確郎と出会い、高松の薦めにより、有島武郎「生れ出づる悩み」「カインの末裔」を読み、文学の世界に触れました。

1929(昭和4)年 18歳
少年時代、室蘭の港町で育った八木義徳は、外国航路の船乗りになりたいと思うようになり、東京高等商船学校(現・東京商船大学)を受験しようとしましたが、近視のために断念。
 
そこで、少しでも海に関係のある北海道大学水産専門部に入りました。けれども、入学後に、自分の志望する道とは異なることに気がつき、日本文学全集と世界文学全集を読みあさるようになりました。特に、ドストエフスキーから深い感銘を受けました。

1930(昭和5)年 19歳
この年の夏。八木義徳は、級友の酒井悠と二人で、2ヵ月の夏期休暇を利用し、樺太(現サハリン)へ放浪の旅をしました。その旅先で、後に、みずからの文学的出発点となる小説「海豹【あざらし】」の世界を体験します。

樺太鉄道の最北端、終点の新問という街までやって来た八木と酒井は、旅費が底をつき、宿代を踏み倒す事態に。その代償に、二人は“ジャコ鹿【浮浪者】”として、オホーツク海を臨む鮭鱒罐詰工場へ売られ、約1ヶ月間、過酷な労働生活を送ったのでした。そこで、生活をともにしたのは、東北の貧しい農村から出稼ぎに来ている漁夫や雑夫たちで、彼らの厳しい現実を知ることになりました。
この体験が一つの転機となったのは、間違いないでしょう。それからの八木義徳は、社会科学に目を向けるようになり、左翼思想に入って行きます。

1931(昭和6)年 20歳
この年の9月に満州事変が勃発。その後、左翼運動にたいする弾圧が強化され、全国の大学にまで及ぶようになり、ついに八木義徳も退学勧告を受け、自主退学しました。北大に入学して、3年後のことでした。
 
同年秋、八木義徳は上京し、高円寺で下宿生活を送りながら、神田お茶の水の「文化学院」の教室を借りた夜間のロシア語講習会に通っていました。
まもなく、左翼運動の仲間の一人が逮捕されたのを知り、八木義徳はパスポートなしで出国できるハルビンの地を選び、逃亡しました。
ところが、ここでも旅費が底をつきてしまいました。絶望的になった八木は、中国人旅館の一室で服毒自殺を図りますが、未遂に終わり、同宿の軍の慰安婦二人に助けられました。なりゆきで賭博場の用心棒に雇われたりもしましたが、「思想容疑者」として捕まり、東京へ強制送還されて特高の調べを受け、やむなく転向、釈放されたのでした。
八木義徳、20歳のとき。思えば、激動の年でした。

1932(昭和7)年 21歳
八木義徳は、空白の1年間を故郷室蘭で過ごしました。挫折感にさいなまれつつも、ドストエフスキーをむさぼるように再読するうち、文学の世界に進もうと決心。

1933(昭和8)年 22歳
春、八木義徳は第二早稲田高等学院に入学。同人誌の創作活動に入り、横光利一に師事。

1935(昭和10)年 24歳
早稲田大学文学部文学科仏文専攻に進学。希望の露文専攻は、すでに廃止されていました。同年10月、久保田りよと結婚  

1937(昭和12)年 26歳
2月、『早稲田文学』に「海豹」を発表。この「海豹」は、昭和12年度上期の芥川賞候補になり、文壇へのデビュー作となりました。同年6月10日、父好治はレントゲン過量曝射によるガンのため、死去。

1938(昭和13)年 27歳
早稲田大学文学部文学科仏文専攻卒業。
同年満州理化学工業株式会社の社員として奉天市に赴任。八木義徳、27歳のときでした。以後4年間、仕事に追われて、文学の世界から遠ざかりました。けれども、後に、この奉天市で知り合った現地の工員をモデルにして、「劉廣福【リュウカンフ】」を描くことになるのです。

1939(昭和14)年 28歳
5月、満州国西部国境で、日ソ両軍によるノモンハン事件勃発。
8月、八木義徳も応召し、錦洲の部隊に入隊するも、1カ月で除隊する。
9月、第二次世界大戦が開始されると、日ソ両国間に停戦協定が成立。

1940(昭和15)年 29歳
3月、恩師吉江喬松教授の訃報が届きました。かつて、吉江教授は若き日の
八木に向かって、「作家的才能とは忍耐である」と、励ましの言葉をかけてくれました。終生、八木はその言葉を忘れませんでした。
11月、悲しみに追い討ちをかけるように、薬大生だった弟の義豊が病死。

1941(昭和16)年 30歳
12月、太平洋戦争勃発。

1943(昭和18)年 32歳
1月、八木義徳は満州理化学工業を退社、東京に帰りました。
2月、長男史人誕生。
6月、東亜交通公社(後日本交通公社、現ジェイティービー)に入社。

1944(昭和19)年 33歳
2月、戦局の激化に伴い、遺書のつもりで、小説「劉廣福」を書き上げ、『日本文學者会』創刊号に発表。戦時下において、言論統制と紙不足のため、東京の同人誌は「日本青年文学社会」に属するこの一誌のみになっていました。

3月、2度目の応召。
8月15日、中国国内を行軍中に「劉 廣福」で芥川賞を受賞。このとき、八木義徳33歳。

1945(昭和20)年 34歳
8月15日、八木義徳は中国で敗戦を迎え、その後、約9ヶ月間の抑留生活を送りました。

1946(昭和21)年 35歳
5月、復員した八木義徳は昭和20年3月の東京大空襲により、妻子を亡くしたことを初めて知りました。文字通り、一文無しで、横浜市鶴見区馬場町の兄夫婦の家へ転がり込みました。

6月、日本交通公社(元東亜旅行社)を退社。
慟哭のなか、横光利一の力強い励ましによって、「帰来数日」(早稲田文学2.7月号掲載)、「母子鎮魂」(文芸春秋21.12月号掲載)、「仏壇」(新潮22.3月号掲載)、「相聞歌」(文学界22.10月号掲載)を発表。いずれも好評を博しましたが、心の内は充たされず、しばしば夜の街をさすらうようになります。

1947(昭和22)年 36歳
12月、心の支えであった横光利一が胃潰瘍に腹膜炎を併発し、この世を去りました。享年49歳。

ともすれば、悲しみに沈みがちな八木義徳を救ったのは一人の女性、中込正子との出会いでした。当時、19歳だった中込正子は甲府から上京し、看護婦として日本鋼管の診療所に勤めていました。
二人を引き合わせたのは、八木の実兄、義弘。医師である義弘は、日本鋼管の診療所の所長をつとめていたのです。
当初、中込家では、二人の年の差、相手が再婚であり、作家という安定しない職業であることなどを心配し、この結婚に反対しました。けれども、八木の想いは変わりませんでした。

1948(昭和23)年 37歳
1月、半商業的同人誌「文芸時代」創刊。
伊藤整、坂口安吾、武田泰淳、太宰治など、30数名の同人仲間が集まりましたが、その中でも、野口富士男、船山馨、椎名麟三、芝木好子と親しくなりました。
 
3月、短編集「母子鎮魂」を世界社より刊行。

1949(昭和24)年 38歳
3月、短編集「私のソーニャ」を文藝春秋新社より刊行。
5月28日から50日間、11年ぶりに故郷北海道に帰り、道内各地を旅しました。
7月、「文芸時代」は19号で廃刊。
12月、短編集「美しき晩年のために」を講談社より刊行。着実に、作家としての地盤を固めていきました。

1950(昭和25)年 39歳
1月、野口富士男に誘われて、「キアラの会」に入会。
7月、兄義弘自殺。左肺に悪性の腫瘍が見つかり、医師である兄は自己診断し、みずからの命を絶ったのです。

1951(昭和26)年 40歳
11月18日、中込正子と結婚。母セイ、正子夫人とともに、一家3人の暮らしがスタートしました。八木義徳、40歳。 

1952(昭和27)年 41歳
7月、室蘭開港80周年、市制30周年記念講演「北方的人間」を行いました。この後8月、有島武郎の小説「生まれ出づる悩み」のモデル、画家木田金次郎を北海道岩内町に訪ねました。
10月、「漁夫画家」を『文学界』に発表。

1954(昭和29)年 43歳
3月から、「野生の舞踏」を北海道新聞に連載100回で完結。

1955(昭和30)年 44歳
6月、「野生の舞踏」を北辰堂より刊行。

1957(昭和32)年 46歳
6月11日、母校「道立室蘭栄高校」創立40周年記念式典に出席、はじめて母校で講演。テーマは「われらが青春の時」でした。つづいて、室蘭図書館の主催による文芸講演会「文学的才能について」が開かれました。その後、20日間に渡り、道内各地を旅行し、釧路で原田康子夫妻と会いました。 
10月、京都・奈良へ1週間の旅行。
また、この年には「かわさき文学賞の会」主催による「かわさき文学賞コンクール」が創設され、第1回から選考委員をつとめました。

1958(昭和33)年 47歳
6月4日から3日間、画家田中祥三と北海道倶多楽湖へ取材旅行。 
10月、『新潮』に「倶多楽湖」を発表

1959(昭和34)年 48歳
3月5日から4週連続で、NHK札幌よりラジオドラマ「倶多楽湖」放送。 
4月14日、北海道放送テレビ「木田金次郎さんとその作品」に出演、木田金次郎と対談。 
12月25日、三重県伊賀町柘植に横光利一文学碑が建てられ、その除幕式に
遺児横光象三・佑典兄弟、川端康成、中山義秀、白川渥らとともに出席。八木義徳、48歳。  

1961(昭和36)年 50歳
3月4日から15日間、秋元書房の依頼で四国遍路の旅に出ました。
9月、カメラマンの車に同乗し、再び四国を1周

1962(昭和37)年 51歳
4月、長編紀行「四国遍路の旅」を秋元書房より刊行。 
9月11日、中山義秀の文学碑が福島県岩瀬郡長沼町に建てられ、その除幕式に出席。

1964(昭和39)年 53歳
7月23日、本庄陸男「「石狩川文学碑」除幕式に出席するため、伊藤整、船山馨、山田清三郎夫人らとともに、北海道石狩郡当別町へ行きました。
記念講演を行ったあと、「北海道文学者会議」に出席。当日、北海道ラジオ放送「座談会・本庄陸男25周年忌を迎えて」に出演。

1965(昭和40)年 54歳
3月、名古屋の作家社(主宰小谷剛)による文学賞「作家賞」が創設され、第1回から選考委員をつとめました。

1966(昭和41)年 55歳
4月、「文京女子短期大学」英語英文科・一般教育科目《人文関係科目》の非常勤講師に。 
10月13日から4日間、毎日テレビ「日本の名作シリーズ」、「有島武郎・生れ出づる悩み」撮影のため、札幌、ニセコ、岩内、積丹半島沿岸のロケーションに同行。
12月13日、NETテレビ(現テレビ朝日)系より、「日本の名作 ― 有島武郎・生れ出づる悩み」放送。

1967(昭和42)年 56歳
7月24日、母校「室蘭栄高等学校」創立50周年記念式典に出席。その後、夫妻ではじめて道南地方を旅しました。
 
10月、北海道新聞社主催による「北海道新聞文学賞」が創設され、第1回より審査員をつとめました。31日、札幌で行われた第1回受賞式に出席、記念公演。

1969(昭和44)年 58歳
1月、横浜市鶴見区の借家から、町田市山崎町山崎団地に転居。

1971(昭和46)年 60歳
3月10日から4月26日まで、北海道新聞夕刊に自叙伝「私の文学」を連載40回完結)。
 
12月、随筆集「私の文学」を北苑社より刊行。

1972(昭和47)年 61歳
1月12日、札幌グランドホテルで「私の文学」出版記念祝賀会が催され、夫婦で出席。この祝賀会には、友人の野口富士男、船山馨、原田康子らがかけつけてくれました。 
7月8日、札幌NHKより、ラジオ・ドラマ「摩周湖」放送。

1974(昭和49)年 63歳
7月14日、札幌市で「室中四八会」卒業45周年記念総会が開かれ、出席。
 
9月、北海道標茶、奈井江町に「北海道文化講演会」の講演旅行。

1975(昭和50)年 64歳
5月10日、北海道静内郡静内町に船山馨「船山文学〈お登勢〉の碑」が建てられ、その前夜祭と除幕式に出席。 
7月、「風祭」を『文藝』に発表。

1976(昭和51)年 65歳
7月28日から3日間、北海道新聞の連載小説「海明け」取材のため、故郷室蘭へ。 
8月、河出書房新社より、短編集「風祭」刊行。
10月、八幡城太郎のすすめで、「町田ペンの会」の結成当初から会員になりました。「町田ペンの会」とは、町田市在住の市民によって、地域文化向上を目的として結成されました。初代会長は野田宇太郎、2代目会長に八幡城太郎。

1977(昭和52)年 66歳
1月9日から10月30日まで、北海道新聞日曜版に「海明け」を連載(43回完結)。この小説を書くために、八木義徳は3年間ほど、池袋に仕事部屋を構えました。 
2月、「風祭」で第28回読売文学賞小説賞を受賞。 
3月、画家田中祥三と流氷の海明けを見るため、ウトロ、網走、根室方面へ「海明け」の取材に。 
6月10日、「道立室蘭栄高等学校」創立60周年記念式典に出席、記念公演「若さとは何か」を行いました。 
12月4日、北海道千歳市で催された長見義三の「白猿記」出版記念会出席。

1978(昭和53)年 67歳
4月、河出書房新社より、長編小説「海明け」を刊行。 
8月、全国同人雑誌作家協会が主催する「全国同人雑誌文学賞」が創設され、第1回から選考委員をつとめました。
12月23日から3日間、小説「海明け」をドラマ化するテレビ朝日「流氷の詩」の室蘭ロケに、主演の北大路欣也、松原智恵子、藤真理子らとともに参加。

1979(昭和54)年 68歳
1月25日から毎週木曜日、10週連続でテレビ朝日「流氷の詩」放映。 
6月16日、北海道洞爺湖温泉で開かれた「室中四八会」卒業50周年記念総会に出席。 
9月4日から2週間、はじめてイギリス、スペイン、フランス、スイス、イタリア、ギリシャのヨーロッパ6カ国を旅行。

1980(昭和55)年 69歳
10月、室蘭文芸協会刊「室蘭市民文芸14号」が「特集・八木義徳」号として刊行。 
11月6日、室蘭市測量山に「八木義徳文学碑」が完成、除幕式には夫婦で出席。翌日、北海道放送テレビ「ふるさと人間記」撮影のロケーションに参加。

1981(昭和56)年 70歳
8月5日、船山馨・春子夫妻が同日相次いで死去し、東京都新宿区中井の自宅に弔問。
7日、中野区上高田の龍興寺での葬儀、告別式に参列し、弔辞を読みました。 
9月、「講談社フェーマス・スクール四谷学院」の文芸講座《小説作法》の講師になりました。

10月20日、北海道放送テレビ「パック2」のなかで、「ふるさと人間記 ― 八木義徳」放送。

1982(昭和57)年 71歳
7月23日、故郷室蘭市で、室蘭港開港110年・市制施行60周年記念「室蘭市栄誉賞」を室中の同期生、能楽師の阿部正行とともに受賞。記念式典、授賞式に夫婦で出席。 
12月11日から26日まで、池袋・西武美術館で「歿後35年・横光利一展」
が開催され、期間中の14日、中村真一郎とともに記念公演を行いました。

1983(昭和58)年 72歳
4月、「講談社フェーマス・スクール四谷学院」文芸講座《小説作法》の「八木教室」を受け持つようになりました。
残念ながら、この「講談社フェーマス・スクール四谷学院」は9年後の1990年に閉鎖されてしまうのですが、その後、有志を中心に八木義徳指導のもと、最後の弟子となる「ETG」を結成し、現在に至っています。 
10月、室蘭市で「八木義徳文学碑」顕彰祭、稲月螢介「巴里祭の鴉」出版記念祝賀会が催され、出席。また、同市の「ファミリーデパート桐屋」で、室蘭文学館設立期成会主催による「八木義徳と北海道芥川賞作家展」が開かれました。会場には、初版本、自筆原稿など、約400点が展示され、好評を博しました。

1984(昭和59)年 73歳
4月、室蘭市で、地元出身の芥川賞作家八木義徳の作品と人となりに親しもうと、「八木義徳を読む会」(代表樋口遊魚)が発足。 
9月、室蘭市で、「八木義徳と板東三百文学展」(室蘭文学館期成会主催)の開催。 
10月、作家上西晴治と石狩川河口の旅。
12月、「河口」を『文学界』に発表。

1985(昭和60)年 74歳
10月、室蘭市で「八木義徳文学碑」顕彰祭、文芸講演会の開催。

1986(昭和61)年 75歳
5月、日本文芸家協会の理事に再度、選任されました。 
10月、土合弘光「心には北方の憂鬱 ― 八木義徳書誌 ―」が、八木義徳書誌刊行会より、刊行。この書誌は、室蘭市在住の土合弘光が中心となり、10年という永い年月を掛けて作成したもので、八木義徳本人が序文を寄せています。
同月17日、室蘭市で、「八木義徳書誌」刊行祝賀会の開催。
翌日の18日、「葉山嘉樹文学碑」の除幕式に出席。

1987(昭和62)年 76歳
5月30日、札幌市で催された「北海道文学館」創立20周年祝賀会に出席。 
10月から平成3年9月まで、北海道新聞の土曜日夕刊に随想「八木義徳のひとりごと」を連載(第98回で完結)、カットは友人の画家田中祥三が担当。 
11月1日、1ヶ月前から鳥取県で開かれていた「本の国体・日本の出版文化展」中のシンポジウム「文学と読書」が大山で催され、野口富士男、吉村昭とともに出席。

1988(昭和63)年 77歳
1月10日から4週連続、NHKラジオの日曜名作座で「家族のいる風景」放送。 
4月10日、神奈川県小田原市民会館で、尾崎一雄、川崎長太郎の両者を偲ぶ文芸講演会の開催、八木義徳は「尾崎一雄・人と作品」というテーマで講演しました。
 
6月6日、「第44回日本芸術院恩賜賞」を受賞。
10日、室蘭市で、その受賞祝賀会が催され、夫妻で出席。野口富士男、原田康子らが同席し、祝ってくれました。
17日、NHK教育テレビ「文化ジャーナル」の座談会に出演。 
7月17日、NHK教育テレビ「日曜美術館 ― 北海道・大自然の肖像・画家木田金次郎」に解説者として出演。 
10月21日、室蘭市に「室蘭港の文学館」開館。開館式、開館祝賀会、「八木義徳文学祭」に出席。 
11月5日、「第42回北海道新聞文化賞」を受賞。札幌市で催されたその贈呈式、祝賀会に夫婦で出席。

1989(平成元)年 78歳
3月、足かけ23年間、非常勤講師としてつとめた「文京女子短期大学」を退任。 
10月7日、札幌市で開催された「北の文学フェスティバル」のリレーフォーラム・パーティーに出席。 
11月3日、平成元年度秋の叙勲で、「勲三等瑞宝章」を受賞。 
11月20日、「日本芸術院会員〈第二部〉」に内定し、12月15日付で文部大臣より発令されました。

1990(平成2)年 79歳
1月31日、「室蘭市名誉市民」に選ばれる。室蘭市で開催されたその顕彰式、祝賀会に夫妻で出席。 
2月3日、北海道NHKテレビ「北海道ワイド・土曜インタビュー」のなかで、「作家・八木義徳氏故郷へ」放映。 
3月、八木義徳にとって、はじめての個人全集「八木義徳全集8巻」が福武書店より、刊行されました。10月に完結。 
5月、伊藤整の功績をたたえようと、ゆかりの地小樽市で「伊藤整文学賞」が創立され、第1回から選考委員になりました。 
12月、「菊池寛賞」受賞。40有余年、ひたむきに、純文学に専念してきた功績が認められたのでした。八木義徳、79歳。

1991(平成3)年 80歳
6月、室蘭市で、「第2回室蘭ルネッサンス大学講演」の開催。講師として招かれたのは、三浦清宏と八木義徳の二人で、「文学と超能力について」(三浦)、「文学するこころ」(八木)をそれぞれ語りました。
 
8月、「港の文学館」に八木義徳をモデルとしたブロンズ頭像「北方の人」が設置される。制作者は、中川曠人。
 
10月、福武書店より、随想集「文学の鬼を志望す」を刊行。

1992(平成4)年 81歳
3月、「早稲田大学芸術功労者」表彰を受け、同大学図書館主催で「八木義徳展」が開かれました。八木は、1949(昭和24)年と1951(昭和26)年に、それぞれ復刊された第4次、第5次『早稲田文学』の編集委員をつとめたこともありました。
3月28日、八木義徳の母セイ、死去。享年102歳。大往生でした。

1995~98(平成7~10)年 84歳~87歳
1995年5月、「伊藤整文学賞」の選考委員の選考委員を辞任。
この頃から、めまいの症状を訴えるようになり、血圧が異常に低下し始めました。
翌年には、かかりつけの医者から、「こんなに血圧が低いと、小説を書けなくなります」と、宣告されたほどでした。けれども、このときはまだ、老人性の低血圧というだけで、病名がはっきりしませんでした。
その後の3年間、八木義徳は入退院を繰り返すようになります。病名も、「起立性低血圧」であることが判明しました。この病気は、起き上がると、血液が急激に下がり、心臓に押し上げる力がなくなってしまうという厄介なものでした。そのため、しばしば、起き上がろうとしては、失神するという発作をおこすのです。
なかなか、病状は回復せず、出版社から原稿の依頼があっても、断らなければなりませんでした。そんなとき、八木義徳は担当の編集者に長い詫び状をしたため、送りました。
北里大学病院に入院していたときは、病院の食堂の大きな窓から眺める、緑豊かな景色が気に入り、食事が済んだ後もひとり残って、時のたつのも忘れてしまうほど見入っていたこともしばしばありました。
また、1998年の夏、入院中の八木義徳は、「連日深夜まで、サッカーのワールドカップ中継を見ていたら、体調を崩してしまったのだよ」と、冗談めかして言っていました。いくら年を重ねても、その好奇心の旺盛さは衰えることを知りませんでした。

1999(平成11)年 88歳
1月、「文章教室」を作品社より刊行。この本は、1983年(昭和58)年
1月から6年間にわたり、『月刊自動車労連』に連載された「名文鑑賞」がベースになっています。
7月、八木義徳は町田市山崎団地の自宅で、起立性低血圧の発作をおこして失神し、救急車で多摩丘陵病院に運ばれ、そのまま入院しました。
8月、年間暮らした山崎団地から、同市内の団地に転居。正子夫人は、入院中の八木義徳を気遣って、介護用のベッドや氷が簡単にできる冷蔵庫、野菜スープを作るための圧力鍋などを新しく用意しました。そして、毎日、バスに乗って病院に通ったのでした。
この団地のベランダから眺める夜景は美しく、正子夫人は「義徳にも、この夜景を見させてやりたい」と、心から願いました。 しかし、その願いが叶えられることはありませんでした。
10月9日、多摩丘陵病院に入院中の八木義徳のもとへ、北海道新聞の編集委員谷地智子記者が訪れ、インタビューを行いました。「北海道新聞文学賞」の選考委員会に出席するため、北海道から上京していた原田康子も同席しました。八木は院内感染に罹ったあとで、ようやく少し持ちなおしたところでした。それにもかかわらず、話しは弾み、本人にとって、とても楽しい一時であったようです。この日のインタビュー記事は、八木が米寿を迎えた10月21日の北海道新聞夕刊に掲載されました。
10月21日、八木義徳が米寿を迎えたこの日、室蘭市の「港の文学館」に「八木義徳記念室」がオープン。記念室開設に合わせ、八木は新たに生原稿や写真、書簡など段ボール箱70個あまりを贈り、展示資料はさらに充実しました。
1999(平成11)年11月9日、八木義徳は、遺作となった「われは蝸牛に似て」の校了をした直後、昏睡状態に陥り、永眠。享年88歳。病院のベッドから、正子夫人に「原稿用紙を持ってきなさい」と、告げたのが最期の言葉となりました。 
同年11月14日、南多摩斎場にて通夜。翌15日の葬儀には、八木義徳の好きだったベートーベンのピアノ協奏曲が流れるなか、喪主の正子夫人、遺族、故郷の新宮正志室蘭市長、文学仲間、出版関係者ら約150人がひとりひとり白いカーネーションを捧げ、八木義徳に別れを告げました。
葬儀委員長は、吉村昭。そして、長い間「伊藤整文学賞」の選考委員を一緒につとめた文芸評論家高橋英夫、親交のあった作家三浦哲郎、新宮室蘭市長らが弔辞を読みました。
同月17日、室蘭市内のホテルで、八木義徳の「室蘭市葬」が行われました。生前、八木義徳が「私の墓」と、言っていた室蘭の測量山をデザインした祭壇がしつらえられ、八木の好きだったベートーベンの曲が流れるなか、約250人が献花して、個人の冥福を祈りました。
 八木義徳は、「愛」という言葉を使うのは嫌いでした。しかし、八木義徳は室蘭をこよなく愛し、室蘭の多くの人々から愛されたのでした。

2000(平成12)年
2000(平成12)年1月、遺作となった「われは蝸牛に似て」が作品社より、刊行されました。2月、重版決定。

交友関係のあった作家としては、前記の野口富士夫、船山馨、椎名麟三、芝木好子、原田康子、三浦哲郎、吉村昭のほか、山本周五郎、佐多稲子、遠藤周作、津村節子、渡辺淳一、佐伯一麦、山田詠美 など多数。