編著を担当された土合弘光氏の「あとがきに代えて」

あとがきに代えて

作家・故八木義德先生は1911(明治44)年、北海道室蘭市に生れる。北海道庁

立室蘭中学校(現北海道室蘭栄高等学校)、北海道帝国大学附属水産専門部(現北海道大学水産学部)(中退)、早稲田大学文学科と進み、作家横光利一に師事する。

38年、大学卒業後、当時の満洲国に新会社設立のため渡満、44年、そこの工人をモデルにした小説「劉(りゅう)廣(かん)福(ふう)」で「第十九回芥川龍之介賞」を受賞する。

戦後は『母子鎮魂』『私のソーニヤ』などを次々に発表、特に『摩周湖』『海明け』『遠い地平』など、故郷北海道を描いた珠玉の作品が多い。77年、『風祭』で第28回読売文学賞小説賞、88年、第44回日本芸術院賞恩賜賞、90年、第38回菊池寛賞をそれぞれ受賞する。また89年、日本芸術院〈第二部〉の会員、90年、室蘭市名誉市民、92年、早稲田大学芸術功労者となる。

そして故郷室蘭市の「市立室蘭図書館附属文学資料館」、愛称「港の文学館」(現・室蘭市港の文学館)とは特に係わりが深い。88年10月、地元室蘭市出身の芥川賞作家である八木義德先生を中心とした同館が開館する。ついで93年には八木義德先生より芥川賞正賞の「すずり」を始めとする記念品・生原稿・蔵書等の文学資料約2000点の寄贈を受け、同年「八木義德文学展」が同館にて開催された。

そして99年10月21日の誕生日、同館に「八木義德記念室」が新設され、文学資料約500点が展示された。当時病床の身であった八木義德先生はこの記念室を見ることなく、同年11月9日、88歳で永眠する。また終の棲家となった東京都町田市に、2006年10月、同市ゆかりの作家の資料を展示した「町田市民文学館ことばらんど」が開館、書簡・初版本等の文学資料が展示された。

「私の文学は血と土とそして海の風から生れる」と、自分の文学の“血”は「北方的感性だ」とはばかりなく言い、そしてふるさとの海霧の季節を懐かしみ、その霧笛が鳴り響く「北方の憂愁(トスカ)」をいつも心の中に持ち続けた。文学一筋、流行には目もくれず、ひたすら自分の境地を磨いてきた私小説作家と言われた、最後の文士であった。

その八木義德先生に憑かれて早30数年が過ぎ去った。当初、同郷の作家ということで八木文学に近づいたが、八木文学というより人間八木義德にやられてしまい、あろうことか全作品を読破しようと思い立ったのが書誌作りの始まり。しかし未だ全作品読破は果たしていない。

「八木義德書誌」の刊行は初めに土合弘光編著『心には北方の憂愁(トスカ)―八木義德書誌―』(八木義德書誌刊行会、1986年10月刊)、続いて『八木義德全集8』(福武書店、90年10月刊)に土合弘光編の書誌が収録された。ついで『港の文学館叢書 第一巻 八木義德書誌』(室蘭文学館の会、97年4月刊)と、今日まで3度にわたり刊行された。しかしながらそれぞれの書誌には誤記・遺漏が数多く見られ、完全な書誌とはいえず今日に至っていた。

このたび町田市市制50周年記念事業の一環として、「文学の鬼を志望す─八木義德展」が開催される運びとなり、それに伴い当文学館から『心には北方の憂愁─八木義德書誌〈1933-2007〉―』が刊行されることになった。私にとって望外の喜びであると共に、今までの研究の成果を発表出来る良い機会となった。

本書誌は今まで刊行した書誌を踏まえ、文献調査については基本的には原文献を収集し、また文献複写で確認出来たものを記載、確認出来なかった文献は詳細不明と記して、より完全な八木義德書誌を目指した。前述した通り、本書誌においても誤記・遺漏が多々あると思われる。さらなる完全詳細な「八木義德書誌」を目指して多くの皆様方のご教示・ご指導を願い、今後の八木義德文献の収集・調査に期したい。

最後になりましたが、八木文献の調査収集には八木正子夫人、樋口游魚様、横川敏晃様、小野寺克己様を始めとする多くの方にお世話になりました。本書誌刊行にあたっては、1986年旧版寄稿文の再録に快くご承諾下さった寄稿者の方々や関係者の皆様方に深く感謝致しております。

また「町田市民文学館ことばらんど」の皆様方には多大なご苦労をお掛け致し、感謝に耐えません。皆様方、本当に有難うございました。

そして八木文学が今後も、多くの方々に読み語り続けられることを願って止みま

せん。

                                   2008年11月

八木義德文学研究会
会 長 土 合 弘 光