昭和19年2月(1944年)の覚書

覚 書  昭和十九年

二月五日.

 「劉広福」五十五枚.「日本文学者」事務所に届ける.

  辻村氏、妻木氏に初対面.

二月七日(月)

 社員手帖、及生活教本作成の仕事をもって、伊豆古奈温泉へ出張

 (課長、主任、高橋敏)

 玉泉閣東屋旅館、課長の顔なり.

古奈は三島より駿豆鉄道にて伊豆長岡駅下車、

 桂川、と冨士、

 古奈はひなびた閑寂な温泉村である.だがすこしさびし過ぎる.

 湯は単純泉、透明、少し塩味あり.湯温は稍ゝ熱目にて適当

 すぐ仕事にとりかゝり 即夜にして片付ける.

 ミカンとふかし芋、夜は御馳走が出た.酒も一本づつ..

二月八日

 ミカンを買ひに三津まで一里半往復歩く.(バス来ない)

 沿道、うらゝか.ぽかぽかと暖かい.伊豆の峠道.

 長岡温泉を経由、長瀬のトンネルをくゞって三津へ.

 濃藍の海、鮮やかな色、美しい.右手に富士 南アルプスの連山が

 ひだのやうに白く、重なり合ってゐる.

 「さくら丸」といふ船宿にてミカン三貫匁とだしこ二円ほど買ふ.

 帰途長瀬峠の茶店にて、おかみに芋をふかしてもらひ裏山にて

 たべる.

 夜、牛のすきやき、酒が一本づつ、久しぶりにて満腹

二月九日

 出発、課長は大仁温泉へ.

 熱海にて下車伊東へ.観水荘に石川氏夫人を訪ねる.

 歓待を受く.

 明ちやん、大きくなったのに一驚.

 いっしょに風呂に入る.

 十一時過ぎるまで話しこむ.

 夜 月光の入る浴場.裸が蒼白く屈曲して不気味なり.

二月十日.

 石川夫人及び叔母上に別れの挨拶をして朝八時出立.

 東京着正午.

 帰宅昼食後直ちに大和川崎工場へ.容器駅出し完了.

 日向から四枚つゞきのハガキ来てゐた.

二月十一日

 矢向日通へ.発送促進.

 日本劇場に入り「あの旗を撃て」をみる.

 茂吉さんの「正岡子規」読了

 「写生」―「実相観入」

 日劇にて交替の時間を待つ間、日夏さんの「鴎外文学」をよむ.

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 それをカットしたら心身爽快なるべし.

 それを承知で何故テン落するや.

 低劣なその人間主義.

人間とは人間にとって最大の遁辞なり

 金銭。

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 最近、実に心境が低い!

 テンタンならず.ロウ劣なり.卑小なり.賤劣なり.

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 軍二君の兄上より ねぎ一束送らる.

二月十四日 寒.

 日向への第八信.及石川敏郎氏へ手紙.

 日夏耿之介「鴎外文学」読了

 「高瀬舟」「寒山拾得」「ぢいさん、ばァさん」

 「青年」「雁」

 「考勘学医伝」―抽斉、蘭軒、霞亭

 宮川来社、山本来社、

 吉岡氏へ「特異児童作品画集」を貸す.みかん貰ふ.

 あはれなり.

二月十五日 寒

 谷崎さんの「聞書抄」読了.第二盲目物語なるも

 第一より劣る.尚未完なり.「物語」の面白さ.

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 自分の心の辿りつゝある過程がが瞭らか故、行動そのものは制限される.

 行動を緊縛することにより却って心理を充実せしむ.

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二月十六日 寒

 床の中にて網野菊さんの短編集「雪の日」読了.

 叙事は確かだが陰翳がない.水気、色気不十分。

二月十七日 寒

本所を訪ねる.塩鰈(山王のおばァさんへの土産)預ける.

 光ちゃんと茶を喫む.

 夜、宮川来訪.

 入浴

 床の中にて芭蕉講座第六巻(俳論篇)を読む

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 文臺引下せば即ち反古なり.

 松のことは松に習へ、竹のことは竹にならへ.  

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 私意を去るといふことについて

 虚心を以て対象を受け入れるといふことについて

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 機嫌をはかるといふこと―随順.

 対象をこちらから規制するのではなく、対象の動きに

 従ってこちらの心を随応さすといふこと.

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 ポジティブなイデー.

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 吉岡氏へロダン 彫刻写真集を貸す.お菓子貰ふ.

 萌芽.

二月十九日(土) 寒

 会社を休み、光ちゃんと、りよ子史人の田舎へ行く.

 上野前九時五〇分発、取手着前一〇時五〇分.

 バスにて山王下車.(バスひどく混む)

 りよ子は想像以上に回復してゐた.明るく元気だった.

 「予科練」の歌など口吟み、きいてゐて、この自然の快復に大安堵

 した.感謝の念 湧然とす.

 史人、だいぶきかない顔になった.血色もよい.案じてゐたシモヤケ

 かなりよくなってゐたのでまた一安心.

 たゞ、生卵がいけなかったか、下痢をしてゐた.(夜床の中でやった)

 もうすこし肥ってくれ.

自分の顔ひとみしりをしないで、だれにもなつくところがある.

 歯はまだ一本も生えてゐないが、タウモロコシの菓子さかんにたべる.

 薄着にならした故か 風邪いっぺんもひかぬといふ.

 丈夫な子らしい.

 ちょうど本所の母、のり子も前夜来合はせて賑やかになった.

 おばァさんは七十三才、カクシャクたるものだが、流石もう大小便に

 シマリがない。

 しるこ、シチュー、などの御馳走.満腹す.

 母、のり子 夜、帰る.

 泊る.風寒く、寝つかれず.史人下痢便.

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翌朝(二十日)暖

 附近をりよ子、史人と三人にて歩く.

 小貝川、春色、水ぬるむ.

 常総線寺原駅を経由、帰る.山王―寺原三・五キロ

 (もっとも寺原についた時は汽車の出たあとで、寺原から

 取手まで、また歩いた.約二十町ほどか)

 光ちゃんおともで気毒した.

 ねぎ、ごぼう、ほうれんさう、などの土産

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追記

 この日二十四日は史人の誕生日なれば、

 赤飯をおとお頭つき(せいごといふ魚)にて祝ふ.

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 山王行はよかった。

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 帰来、日向からの第八信、来てゐた。

 会社から九〇円電報為替

 (日通小林氏へ三〇.松本氏へ二〇.)

 入浴、早寝.

二月二十三日(月)

 田中正太郎氏来社(大連へ帰任のこと)

 石川明尚君へ坪田譲治「善太と三平」送る.

 日向伸夫へ第九信

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 平常心なし.

 心の焦点ボヤケてゐる.散漫にして空想的.とりとめなし.

 この時の処し方.