昭和19年3月(1944年)の覚書

覚 書  昭和十九年

三月一日

 光一来る。

 秀子たちの疎開いよいよ正式に決定(青森、油川町)

 荷拵へにかゝる.

 吉岡氏より山本健吉「私小説作家論」借りる.

三月三日

 秀子たち、こちらに移って来た.
      ×     ×     ×

 仕事なんにもしない.

附落ち

二月二十五日

 昼休みの時間―横光先生宅訪問.会社九州方面へ御旅行中

 にて御留守なり.奥さまに会社で手に入ったアワビと数の子の

 うに漬けすこし置いて帰る.

二月二十三日

 石川明尚君に坪田さんの「善太と三平」送る.

三月四日

 脱落した気分。

 のりかゝって行くものが何もない.手掛りを失った形だ.

 ―――――――――――理想といふもののイミがすこし判る.

 自分がその上に立ってゐるもの、そしてそこへ行かうとしてゐるもの.

      ×     ×     ×

 粗雑な言葉使ひと粗暴な振舞ひが多い.

 落ちついた、おだやかな気分を持て.

 とにもかくにもすべてを「表現」に近づけよ.
      ×       ×     ×

描写表現といふこと.その相違について考えよ. 

 描写は流れ.表現は立つ

 描写は絵画.表現は彫刻。

 動くもの   静かなもの.

 演繹的   帰納的

 円の外周  円の中心.

 潤一郎 と 鴎外

  弴  と 直哉

 バルザック と フロオベル.

 アラン芸術論集の中の「散文について」を再読のこと.

 長兄に手紙書く.

三月五日(日)

 昨夜来の降雪にて真白だ。珍らしい大雪となる.

 隣家の後片づけ、掃除などする.

 炬燵に入り、吉岡さんより借りた山本健吉著「私小説作家論」を読む

 つゞいて牧野信一全集第一巻読む.

 気分落ち着かずさっぱり頭に入らない.

 そわそわと拾ひ読み.

 肉親に対する独得な神経―思ひがけないユーモアにふと笑ひを催す.

      ×     ×     ×

  positiveな世界観といふのは人間を信ずるかどうかといふ事だ

 人間の未来、人間の発展を信ずるかどうかといふことだ.

 理想といふものも、このこと以外にはない。

 一つ一つの現象ではなく、その一つ一つの現象を貫いてゐる或るものだ.

 ものを事実に於いて掴むだけでは不十分.それを理念に於て

 つかむといふことが大切だ.

善意だけでは足りない.

 一匹のDemonを養へ.―ゲーテ.ジイド.

・万葉集―新古今集

・芭蕉

この日終日 雪降る

三月六日

 りよ子に手紙。

 帰途、紅谷さん訪問.三月中旬.千葉郷里に疎開の由.

 夕食を馳走になって帰る.

三月九日.

 召集令状来る.

 ひで子、会社にもって来た.ちょうど文化課の引っ越しの

 騒ぎの最中であった.ひで子 泣いてゐる.

 引っ越し全部すんでから、課長に令状出してみせる.

三月十日

 会社の中で、文化課全員の歓送会うける.

 宗武、小竹さんたちの奔走で、お汁粉のごち走.

 堤水流主任さん、奥さんの心づくしのごちさう沢山

 重詰めにして わざわざもって来てくれる.感謝。

 部長曰く.

 「会社の中で、こんなに酒をのんだり、うまいものをくったりして

 送別会をひらいたこと、ビューローはじまって以来ないことだ.

 きみは何となく、人徳があるのかね.」云々.

 夜、近親友人たちの歓送会うく.次の諸氏なり.

  山本悟、山本隆史さん、安井、弓削、

  紅谷さん、二宮、松村泰太郎、

  高橋敏、

  庵原一家、浜野夫妻、

 りよ子、来る。

三月十日

 この日、昼、横光先生訪問.招集のこと御報告に。

 しかし、生憎 お留守であった.奥さまにだけ御報告.

 近くの郵便局へ行かれた由なれば そのあたり、数回

 行きつ戻りつすれども ついに 探し当らず.流汗しきり

 なり.断念して、再び奥さまに、先生によろしく

 との伝言をお願ひし帰る.

 心残りなり.

三月十一日

 夜 十時二十分の急行にて、金澤へ出発.

 上野駅頭は、旗の波、沸き返る軍歌.

 横光先生のお見送りを受く.お守り頂く。

 浜野夫妻、二宮、倉崎.

 りよ子、史人、(史人は眠ってゐた)