昭和21年12月(1946年)の覚書

  覚 書  昭和二十一年

十二月十四日(土)晴.

 この三日 暖い.

 朝から「追跡」にぶつかる.こゝまで来ればもう

 ラクだ。筆が浮ひて困る.しかし浮くまゝに一度

 流してみて、あとでまた考へ直すことにする.

 夕飯までに百三十七枚。これで第一稿を

 ともかく書き終へた。ほっとした。

 これで骨組みの材料だけはどうやら出来たから、これから

 いよいよ建築にかゝるわけだ.

 主題は「肉体自身の意志」によって動く一人

 の男の行動の奇跡といったものだ.

         ×    ×    ×

 新潮の小林氏からハガキ.

 先日もって行った「書翰」は近く新潮にのせる

 つもりだからといふハガキだった.

 流石にうれしくて、笑ってしまった.これであの日

 あんな羞づかしい思ひをしたのも、助かったわけだ

 斎藤編集長が一度会ひ度いと言ってゐるから来て

 くれといふことだ.

 もう一度お訪ねして見ようと思ふ.

十二月十五日(日)晴.

 「追跡」清書にかゝる.十枚.

十二月十六日(月)晴

 「新潮」社に斉藤氏訪問.

 「書翰」に対する不満を述べられ、書き直しを言はれる.

 鋭く率直なひとだ.書き直すといふことにして原稿

 をもらって帰る.

 はじめと終りの方が冗漫でごたごたしてゐると言ふ.

 全部書き直さなくてはダメだ.

 豊かな才能が欲しい.

 これでは余りに貧寒だ.もう息切れがしてゐる.

 こんこんと泉のやうに湧き出る創作力と、それへの

 豊かな表現力と.―それ以外のものは何も欲しくない.

 すこし元気ない気持で新橋へ出る.日東で昼食.

 桜木町に出て、グランド劇場で「王国の鍵」をみる.

 牧師の清潔な一生を生真面目に描ひたものだが、

 その清潔さに一種の不自然を感ずる.すこしくさい.

 Yに会ふ.金が足りなかったが、いゝと言ふ.

 王国の鍵よりは地獄の鍵の方が面白さうだ.

 卑劣になるといふことのムヅカシさ.

 善人であることのやさしさ.

十二月十七日(火)晴.

 「書翰」を「佛壇」と改め.改作にかゝる.書翰体

 を止めて、普通の描写体にする.最初「私」といふ

 主人公にしたが中途から「彼」にする.

 私ではすこし不便なところがある.外から見た動作

 が「私」では書けない.

 半ペラで四十七枚まで書く.

 夜はラヂオきく.素人○○の一等当選者の懸賞四人で出す.

         ×    ×    ×

 「追跡」は当分後廻しにするつもりだ.

十二月十八日(火)水 晴

 「佛壇」六十九枚(半ペラ)書き終る.

 もう一度書き直さなければならぬが、自身はない.

 スタイルに統一がない.「眼」があちこちしてゐる.

 志賀さんの眼の立派さを今更考へさせられる.

 母.三崎へ.

十二月十九日(水)晴

 杉山平助「文芸五十年史」

 宇野浩二「夢見る部屋」

 徳田秋声「一茎の花」

 織田作之助「猿飛佐助」

 青野季吉「文学の本願」

         読了

   何れも福田夫人宅から借り
   て来たもの
   (この二三日の間に)

十二月二十日()金 晴.

 今朝四時二十分頃 かなり大きな地震.

 ラヂオによれば関西、四国方面は甚大な損害の由.

 震源地は熊野灘沖.

 「追跡」書き直しにかゝる.

 夜、川端康成全集「作家と作品」読了読み直す.

 今日から新聞は用紙不足のため半型(タブロイド)となる.

十二月二十一日(土)晴

 「追跡」四十八枚まで来て、こゝで止めた方がよいと気づく.

 もう一度書き直して、(テーマをもっと力強くしたら)、短編

 に仕立直しが出来るのではないか.

 小林邦氏から手紙.スランプであった由.しかも、それは

 先日自分が書いてやった手紙のために、(コク評といってゐる)

 さうなった由.―しかし目下起ち直り五十号に組ついてゐる由.

 彼を怒らせることが出来て、うれしいと思ふ.ひとを起こらせる

 といふことは難しいことだから.

 それにしても絵も文章も共に苦しい途だ.その苦しさが

 いよいよわかって来た.

 夜、川端全集「作家と作品」読了.

 作家の寿命といふことを考へる.作家はその作品によって

 淘汰される.流星のやうに出て、流星のやうに消えて

 行く多くの作家.―しかもこゝ十年にもならぬ間にだ.

 こゝほど正直で公平な世界もないだらう.

 作家にとっては、あらゆる意味で作品がすべてだ.

 そしてその作品のために、作家の「生活」がすべてのカギと

 なる.

 いかに切実に生きるかだ.―すべてはこゝへ回(かえ)る.

 生活が絶えず新鮮な感動の場所であるやうな生き方

 ―これがつまり作家の根本的な修業だらう.

 驚くといふこと、が先づ必要だ.考へることはその次だ.

 習慣と惰性をもっとも警戒すべきだ.

十二月二十二日(日) 初雪.

 午前中、小林へ手紙書く.

 川端全集「文芸時評」読む.

 夜、細貝氏と将棋 三連勝.(昨夜は一勝二敗)

十二月二十三日(月)晴

 増岡重治氏より手紙.なつかしく読む.十年ぶりだ.

 「追跡」第三稿にとりかゝる.

 入浴.福田夫人よりまた原稿用紙五百枚頂く.金額にして二百円なり.

十二月二十四日(火)



十二月二十五日 (水)



十二月二十六日 (木)



十二月二十七日 (金)

                     「追跡」

             四十八枚完了.

                (結末は三度変更せり)

 新美氏よりハガキ.肥料会社に入った由

十二月二十八日(土).晴

 歳末風景見物にギンザに出る.

 ほとんどないものはないが、みんな縁がない.

 かういふのも甚だノンキでよろしいものだ.

 全線座で「疑惑の影」といふ映画をみて帰る.

 川端選集 読む

十二月二十九日(日)晴

 タケシをつれて、第二号国道から生麦に出.

 第一国道を廻って帰る.

 夜、飯河来訪.りきさんのお母さんとお父さん

 の不和の問題で悩んでゐた.お母さんはもう六十七

 ださうだ.

 老年の夫婦の不和は救ひがないのではないか.

 川端選集 読む.

 「雪国」はやはり美しい作品だ.

 「童謡」もやはり感心した.

 しかし、今度読み直してみて、他の作品には

 何か不快な感じ、といふより、にほひをかいだ.

 川端さんには何か女の体をなめ廻すやうな

 ところがある.

 しかし、川端さんの「おさな心」といふよく使ふ言葉

 の感じ、よく判る.魂の郷愁とあこがれだ.

 そして川端さんはそれを女の体を通した時いちばん

 よく感ずるのだ.

 だから女の体はそこへの途であってそれが目的でない.

 しかしこれはかへつて女自身からはこまることだらう.

 女は常に自分が最後の目的であることを望むからだ

 川端さんのものを読むと、ずいぶん「ウソ」を感ずる.

 しかしこのウソは作者が前以て十分承知のウソで

 あることもよく判る.

 そして川端さんはこのウソにしか生きられないのだ.

 だからこのウソは川端さんのマコトであるのだ.

 この逆説が川端さんのものに不思議な陰翳を

 与へてゐる.

 孤独といふものを本当に知ってゐるひとだ.

 感傷はありさうでゐて、全くない.

 神経は細いやうでゐて 細くない.すくなくとも

 病的ではない.

 「おさな心」といふのも母の乳房をもとめる心か.

 川端さんの孤児の感情は深いのだ.

十二月三十日(月)晴.

 タケシをつれて三ッ池まで散歩.三ッ池は

 案外平凡だった.

 上池

 中池

 下池

   天保

 といふ石碑がたってゐた.ずいぶん昔からあった池なのだ.

 ボートが二三十、岸に上がってゐた.

 タケシ、クレオンで池をスケッチ.まるでデタラメな

 かき方に思はず大きな声で笑ふ.

 上手にかかうと思はぬ子供の絵。

 大きく迂廻して 末吉に出て帰る.

      ×    ×    ×

 増岡、新美、に手紙.

 茨城の母にハガキ

 夜、

 茶山氏に手紙

 吉江先生の奥さま、永崎、粕谷、多田、神戸、

 峰村諸兄に年賀状を兼ねてのハガキ

 書く.

十二月三十一日(火)晴.

 今年最後の日だ.

 還って来てからした仕事ふり返ってみる.

「帰来数日」三十二枚 昭二十一・七・一・ 早稲田文学創作特輯号

「母子鎮魂」五十六枚 〃二一・七・二七・ 文藝春秋一二月号

「復  員」六十枚   〃二一・八・一九  素直

「胡沙の花」九二枚  〃二一・九・二    暁鐘

「殻の中」五十四枚  〃二一・九・二一  風雪  

   改訂四十五枚  〃一〇・一〇    風雪

「書  翰」四十八枚 〃 一〇・二九

「遺言状」 二十四枚 〃一一・一二.  N・H・K

「追  跡」四十八枚  〃一二・二七.


      3 2
      5 6
      6 0
      9 2
      4 5
      4 8
      2 4
   +  4 8  
    4 0 5 枚

 八作四〇五枚

 自分としては割合書いた方だ.しかしまだ少い.

 すくなくともこれで食って行かうとするならどうしても

 この倍は書けなければダメだらう.

 いや、モンダイはいゝものを書くこと.

 胡魔化しの仕事はしないこと.

 単に「金」をとるためだけの仕事はしないこと.

 (こういふ甘い汁の味を知るとやめられなくだ(ママ)らう)

 スタイルの整はぬことは気にする必要なし

 それは作者自身では気づかぬものなのだらうから.

 作者はたゞ「完璧」をこそ狙ふべし

      ×    ×    ×

 母、兄、嫂、猛、自分の五人にて年取りの御膳に向ふ

  煮〆、なます、鳥のもつ、黒豆、餅.

 結構な年越しだ.