§タブーなき時代の小説

伊東 そらから、八木さんは北海道のご出身ということを、たいへん意識されていらっしゃいます。そして北海道の作家は、伊東整さん、和田芳恵さん、船山馨さん、それから高橋揆一郎さん、原田康子さん、小檜山博さん、そのほか大勢いらっしゃるけれど、八木さんも前におっしゃっていましたね、一見ちがうように見えて、資質的には似たような部分があるのではないか、と。

八木 ぼくが思うに、北海道出身の作家に共通して言えるのは、デカダンスがないことだと思う。そしてあえて言うなら、倫理的な匂いが強いんじゃないかな。小林多喜二とか、島木健作とか、久保栄とか、本庄陸男とか、ことにプロレタリア作家なんかは、その感が強いような気がする。それに対して血路を開こうとした人が、伊藤整さんだと思う。人間の生き方として、倫理的であることは美しい。しかし倫理的であるために自分が破壊しなければならないときがある。だが、自分は破壊したくない。とすれば、この自分はどう生きたらよいのか、ということで、伊藤さんは小林多喜二を鑑にして、血路を開いた人だと思う。

伊東 やはり白樺派的、理想主義的なのではないでしょうか。「情」の世界を描いていても、それを「理」的なものが強靭に貫いている、そういった感覚が共通してあるように思います。

八木 デガダンスがないという背景には、北海道は半植民地であったために、文化的土壌が厚くない、ということがあるんです、デカダンスとか、唯美主義とか、耽美主義とかいうものがうまれるには、やはり文化的な土壌の厚い大都市じゃなければね。

伊東 北海道出身の芥川賞作家は、八木さんのあとには久しくなかった、と以前新聞で読みました。最近は高橋揆一郎さんや加藤幸子さんがいらっしゃいますけれど、戦後長く、八木さんおひとりだった。

八木 ぼくは北大の文学部の先生に、昔言ったことがあるんですよ。北大からはあまり作家が出ないようだけれど、どうして出ないんでしょうね、と言ったら、のんびりするからでしょう、と笑っていました。たしかにのんびりするというのはあるんです。それから北大は、今では本州からの学生のほうが、地元出身者よりもはるかに多いのだそうです。だから風土に溶け込んで、そこから何かを表現したいという強い気持が湧いてこないのかもしれないね。

伊東 八木さんは、今度新しく創設された伊藤整文学賞(第一回受賞者は秋山駿、大江健三郎の両氏)の選考委員にもなられましたが、現在までにも、名古屋の小谷剛さんの主宰される「作家」賞や、先ごろ野間文芸賞をお取りになって活躍中の佐伯一麦氏なども受賞された、「かわさき文学賞」の選者として、長らく後進の指導にも当たってこられましたね。最後に、「早稲田文学」の現在や、現在活躍している若手の作家について、なにかご感想のようなものがあれば、承りたいと思うのですが。

八木 今の若い作家とちがうのは、ぼくらの時代にはタブーがあったことだろうと思う。天皇制や儒教的な道徳、家族制度もあった。それからセックスに関する表現とか。だから自由に生きようとすれば、結果的に、今挙げたうちのどれかのタブーにひっかかる。それを目的意識をもって、おれはこのタブーにむかって闘うんだといって書く人もいる。またはぼくのように、自由勝手に生きた結果タブーにぶつかって、むこうのほうが力が強いから、当然挫折して、その挫折が作品のモチーフとなる人間もいる。だけど今の若い人たちにとっては、何がタブーなんだろう。何にむかって挑めばいいのか、目標が見えづらいから、とても苦しいだろうなと思う。あらゆることが許されているとなると、闘うべき相手は見つからないでしょう。ぼくは年をとってしまったからわからないけれど、若い人は若い人なりに、自分のタブーを持っているのかな。

伊東 作家は自分にマイナスの部分があればあるほどいい、と八木さんはおっしゃっていましたが、それともつながりますね。

八木 欠落している部分が、あればあるほどいいんだね。その欠落を埋めようとする意思が、つまりその人のエネルギーになるんだから。若い人たちに会ったら、聞いてみたいと思うことはふたつある。今あなたにとっては何がタブーなのかということと、小説を作るモチーフは、一体どこから得るのかということ。表現の技術はとてもうまくなっている。技術という点では、ぼくらと比較にならないくらい、うまいです。ただ読んだあとに、うまいなあ、という感じはするけれど、残るものがない。たとえば岩野泡鳴なんていう作家は、小説の技術とか文章とかいう点から言えば、おそろしくへたな作家だと思うけれど、読んだあとになにかずしんと応えるものがある。だから今の若い人は技術的にはとてもうまくなっているし、読んだあとに、ひとつの小説世界を実にうまく作りあげているなと思うけれど、岩野泡鳴を読んだあとのような、胸にずしっとくる力が弱い気がする。だいたい技術とか文体というものは時々刻刻と流れるもので、そのときはもてはやされても、しばらく経つと力を失ってしまう。

伊東 たとえば自然主義なら自然主義の文体が、表面的にはすたれてしまった時代にも、読んだら胸を打つ、心に残るものがある、そういう衝撃力を持つ作品がもっと出てきてほしい、そういうことでしょうか。

八木 うまい小説より、力のある小説がいい。衝撃力のある小説を書いてほしいなと思う。ぼくらの時代からすると、あらゆる意味で洗練されていることは間違いない。しかし衝撃力というものをよい作品の基準とするならば、洗練はかえってマイナスではないか。中上健次などには、力があるね。あの人の力は、技術を超えたところのものなんだと思うね。頭や手先ばかりでなく、躰全体のエネルギーで書いた小説が読みたいね。

                   (1990.11.20)

―― 『早稲田文学』(NO.178号 1991年3月刊)
           より転載 ――