伊東 高等商船にお入りになりたかったということですが、目が悪くてだめだったのだそうですね。
八木 そう、近眼だったものだから、受験資格がなかったんだ。
伊東 それで北大の水産専門部にお入りになった。こちらは船乗りになるような勉強をするところではない(笑)
八木 ばかだよねえ、調べもしないで入っちゃったんだから(笑)。とにかく海に縁のある学校はそこしかないと思っていたからね。魚を獲ったり、魚の缶詰を作ったり、魚の養殖をしたりすることを教える学校だなんてこと、全然調べないで行っちゃった。
伊東 その学生時代、友人と二人で樺太(現在のサハリン)の放浪旅行をして、宿賃を踏み倒したため、奥地の鮭鱒缶詰の工場に売られるということがあって、そうしてそこで「雑夫」として働いている東北の貧しい農民たちに触れたことから、社会科学とか左翼運動とか、そういう世界に入って行かれるわけですが、しかし結局はその世界でも挫折して、あらためて「文学」という世界に入って行かれたということになるわけですね。そして、その文学の世界ではドストエフスキーとかトーマス・マンに傾倒されましたね。ひょっとしたらそれも、有島武郎につながるものがあったのではないですか。
八木 トーマス・マンへの傾倒は、ずいぶんあとになってからだったね。いちばん感受性の強い時期に、最初にぶつかったのはロシアの作家だった。ロシアの作家というのは、ぼくのような北国の人間には、体質的に合うんですよね。作中の登場人物に対して、異国人なのになんとなく親しみを感じる。ことにツルゲーネフの自然描写なんかは、北海道の自然とほとんど変わらないんだものね。まるで異国の風景だと感じられないほど、親密な感じでね。やはりロシアの作家がいちばん自分の感じに近かったね。だからトーマス・マンはずいぶんあとになってからでした。
伊東 それでは、有島に魅かれたのは、その描写が室蘭のあたりと似ていたからであり、ロシア文学に魅かれたのもそうだったからというのですから、ご自分の生活実感が、かなり文学のなかに入っているんですね。
八木 ぼくの場合はたいていそうだね。頭を通さずに、なんでもまず躰が感じるんだ。
伊東 結局、北大の水産専門部は、途中で退学させられて、そして早稲田の仏文に入りなおされるわけですが、このころは、吉江喬松先生や山内義雄先生が教鞭をとられていた。
八木 そう。その前に、北大を退学させられてから、満州放浪とか、いろいろのことがあったんだけど、そのころドストエフスキーをあらためて読みかえして、『カラマーゾフの兄弟』に魂の震えるほど感動したんだね。そして文学というものがこれほど人を感動させることができるものなら、ひとつ自分もやってみようかな、という気になったんだね。そして小説家になるためには、どうしても早稲田に入らなきゃならないと思いこんだんだね。吉江先生や西条先生や山内先生のお名前は知っていたからね。
伊東 当時は小説家になるんなら早稲田、という風潮がありましたからね。このときにもう、在学中に中村八朗さんらと「くらるて」という同人雑誌を発行されて、そのあとまた多田祐計さんとか辻亮一さんと「黙示」という同人雑誌をおやりになったりしていますけれど、それから喫茶店で、毎日毎日横光利一を読んでいて、辛島栄成りさんという、横光さんの親戚の方にたまたま声をかけられて、それで横光さんのところに出入りするようになったのだそうですね。多田祐計さんや清水基吉さんも、横光門下でいらしたのですね。当時の早稲田の学生は、横光利一のような大家のところに出入りすることが、よくあったのですか。
八木 あとで聞くと芹沢光治良さんのところに行っている人もいた。中村は丹羽文雄さんのところに行っていたし、それから辻は、外村繁さんのところに行っていたかな。みんなそれぞれ、尊敬する作家のところに行っていたようだね。
伊東 そうすると、そのころの文壇の方々は、作家志望の学生にとって、今よりもずっと近しい存在であったのではないでしょうか。中山義秀さんのところにも、行かれたのだそうですね。八木さんは早稲田の仏文に入られてから、ヴァレリーに非常に関心を持たれて、フランス語の勉強をよくなさっておられた。そうしましたら、中山さんが、アテネ・フランセに行くよりは吉原にでも行ったほうが文学の勉強になる、とおっしゃったんだそうですね(笑)。
八木 ぼくは中山さんのところに行ったのではなくて、横光先生のところにある日うかがったら、そこに容貌魁偉な大きなからだのひとが、すこしくたびれた着物を着て、きちんと膝を折っていたのね。そうしたら横光先生が、ぼくの友人で中山義秀というんだ、と言われた。中山さんの名前は知っていた。「早稲田文学」に書いていたからね。ああ、このひとが中山義秀かあ、と思ってね。そのころ義秀さんはまだ芥川賞をとる前で、生活が荒れていたらしい。横光先生に、お説教を食らっていたらしいんだね。そして横光先生が、君はなんだとか、大きな声を出して、階下のトイレに降りてゆかれた。そうしたら義秀さんがいきなり胡座をかいて、おまえさん芸者買いをしたことがあるか、と。びっくりして、ありません、と答えたら、おれは十七のときに買った、と言う。おまえさんも作家志望か、と言うので、はいそうですと答えたら、今何を勉強している、と聞く。ヴァレリーです、と言ったら、ふんヴァレリーか、そんな洒落たものをやるよりも、安酒でもくらって、質の悪い女にでもだまされたほうが人生早わかりだぜ、とこう言ったんだ。今でもはっきり覚えていますよ、その言葉は(笑)。
伊東 どのようなところから、ヴァレリーに興味を持たれたんですか。
八木 『ヴァリエテ』という本をヴァレリーが出した。そのなかに『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』という、彼が二十四歳のときに書いたものがあったんです。読んだとき、ぼくも二十四歳で、同じ年でこんなに頭脳の構造がちがうものか、と驚嘆したんですよ。例によって、皮膚感覚だね。自分とひき比べてあまりにもちがうものだから、それで読みはじめたのね。
伊東 八木さんはショウペンハウエルにもかなり傾倒なさったそうですね。
八木 ショウペンハウエルは、ヴァレリーの前でしたね。
伊東 八木さんには哲学的な関心も、かなりおありになったのではないでしょうか。
八木 ぼくの読んだのはとても大きい本でね。『意思と現職としての世界』。しかしこの表題の『現職』という言葉は、のちの訳者はみんな「表象」と訳すようになったけど、ぼくの読んだのは姉崎嘲風の訳で、三巻あったかな。たくさん赤線をひいた覚えがあるから、当時は自分なりにショウペンハウエルがわかったんだろうね。しかし何十年か経って、読み返してみると、なぜそんなに赤線をひっぱったのかわからない。若いときのほうが、ショウペンハウエルがわかっていたのかなあ(笑)。
―― 『早稲田文学』(NO.178号 1991年3月刊)
より転載 ――