伊東 八木さんは昭和二十六年に、今の奥様と再婚なさって、このころから第四次、第五次、第六次の早稲田文学の編集委員をなさっていましたね。第四次の「早稲田文学」は、終戦後の混乱もあって、残念ながら長続きしなかったようですが。第五次のときには、浅見淵さんが、編集長格だったんですか。
八木 そうでしたね。
伊東 そして第六次が火野葦平さん、丹羽文雄さん、石川達三さんの責任編集というかたちで。
八木 そう、その三人だったね。
伊東 当時は、尾崎一雄さんとか新庄嘉章さんとかがやっておられたときで、第五次、の復刊第一号に、八木さんは『定期券没収』という作品を書いておられますね。それから三島由紀夫論を書いていらっしゃる。当時としては、ずいぶん早いですね。
八木 あれを書いたのはたしか昭和二十七年だったから、三島由紀夫論としてはずいぶん早いほうだったのかもしれないね。彼の『ギリシア・ローマ紀行』というのを読んで、彼の感性や思想が実に明晰に語られているのに感心して、あれを書いたんだと思う。
伊東 このころ八木さんは、三島由紀夫論のほかに、文芸時評をおやりになっていますね。
八木 文芸時評というより同人雑誌批評といったほうがいいかもしれない。同人雑誌を大事にするというのは、尾崎さんからの伝統なんだ。
伊東 どのくらいの数の同人雑誌が、編集部に送られてきたんでしょう。
八木 数は正確に覚えていないけれども、実にたくさん送られてきたよ。同人雑誌の全盛期だったんだね。
伊東 そのころの「早稲田文学」の編集部の様子などを、お聞かせ願えないでしょうか。
八木 今思うと、論議という論議もない、親密な雰囲気の編集会議だったな。会議に出るのが楽しかったもの。いろんな話を聞かせてもらうのを楽しみに、出るような感じだったよ。尾崎さんの『あの日この日』というのを読むと、谷崎先生は人の好き嫌いが激しい人で、尾崎さんなり浅見さんなりがある人の名前を出しても、その人に対する好悪の感情でもって、あれはだめですと切り捨てたり、という雰囲気があった、と書いてあります。しかしぼくらが編集委員になったころには、熱くなって論議を闘わせるという場は、ほとんどなかったね。親密な雰囲気で、さっさっと決まっていったように覚えています。
伊東 でもかならず編集会議が開かれて、どういう作品を掲載するかを決めていらしたんですね。
八木 そう、だれに書かせるか、ということはね。やはり浅見さんは大ベテランだし、新人を発掘することでは凄目を持っている方だから、この作家はいいと思うけれど、と浅見さんが言えば、それに対して異を唱える人はまずいなかった。浅見さんの眼力にはみんな敬服していたからね。そのころには谷崎先生も、昔のように、それはいやです、それはだめです、ということはおっしゃらなかった。
伊東 「早稲田文学」の編集委員であられたころには、たとえば『摩周湖』という、三十九歳のときの作品がありますね。これは八木先生の故郷である北海道での、野生恢復の書であるとよく言われています。それから『生まれ出づる悩み』のモデルにもなっている、木田金次郎のことを書いた『漁夫画家』を四十一歳のときに書かれています。それからだいぶのちの作品になりますが、『ある酒詩人の死』。こちらの詩人は挫折されてしまわれたけれども、『漁夫画家』と並んで、芸術家小説と言ってもいいかと思います。それから『漁夫画家』と同じ年に、『女』を書かれています。シンガポールを舞台にした、日本の特派員記者と中国系の女性との話ですね。このなかで、日本が敗戦した日に、その阿英(アイン)という女性が主人公に対してサディスティックにふるまう場面がありましたが、これなども、女性の存在が重く感じられました。戦争文学としても、もっと読まれたり取り上げられたりしていい作品ではないかと思います。それから五十代のときには、『鳥』とか『胡桃』とか、これは六十代に入られてからのものですが、順子という女性との交渉を書いた一連の作品がありましたね。
八木 また出てきたよ(笑 )。
伊東 このあたりの短篇は、わたしは結構好きなんです。『風祭』を書かれて、読売文学賞をお取りになったのが、ちょうど六十六歳のときでしたね。
八木 そうだね。
伊東 これ以降の、小説で本になったものだけでも、『海明け』が六十七歳のとき、『一枚の絵』が七十歳のときですね。それから『遠い地平』が七十二歳のとき。それから二年ごとに、『家族のいる風景』『命三つ』『夕虹』。このように特に六十代以降、堰を切ったように創作をされている。どうなんでしょう、偶然かもしれないんですが、八木さんや野口富士男さんにしても、ほかにも藤枝静男さんとか、もう亡くなられましたが和田芳恵さんや耕治人さん、川崎長太郎さん、「早稲田文学」とも関係のふかい結城信一さん、島崎利正さんなどの、いわゆる私小説家といわれる方々は、みなさんお年を召されてから非常によい作品をたくさん書かれるように思えます。
八木 ぼく自身のことは、正直言ってわからない。ぼくは一種の動物的感覚、つまり本能で書いているから、どうして六十代の後半から書けだしたかは、自分でもわからないね。ただ年をとって、「自由」になったことだけは間違いない。どうして自由になったのか、何が自由にさせてくれたのかわからないけれども。
伊東 それから、『風祭』ですとか『遠い地平』といった、八木さんのご生涯に触れた作品のほかに、最近では『贈られた声』『赤い達磨』『夕虹』『陽だまり』といった、老人の性の問題を扱われた作品も多いと思うのです。この分野は、たとえば谷崎潤一郎、伊藤整、そのほか和田芳恵さん、野口富士男さんなど、わが国では比較的に多くの方が取り上げていますね。
八木 これは神様の皮肉の一種だと思うんだけど、年をとって性的能力が減退するにしたがって、女性が美しく見えてくるんだね。女性が美しく見えるということは、老人にとっては非常に喜びなんだよ。無条件に女性の美しさ、あるいは美しい女性を見ていると、心にある喜びが沸きたってくる。セックスということもその一部だろうけれども、大きく言えばエロチシズム。そのエロスの世界が年をとってくるととても大事なものに思えてくるんだね。
伊東 八木さんはご自分のことを、猪突猛進型であるとおっしゃっていましたけれども、どうなんでしょう(笑)。
八木 文字通り亥年生まれだもの(笑)。典型的な亥年生まれだと思うよ。単細胞的な人間だと思っている。何かにぶつかって、はじめて方向が変わる。自分の理性で自らを統御して、そっちに行くと危険だからあらかじめ避けておこう、という風にはできないんだね。何かにぶつかって、やむなくこっちに方向を変えたり、あっちに方向を変えたり、とぼくの場合はいつもそうなんだ。生き方そのものもそうだし、人と人との関係、特に女性に対するやり方もそうだ。壁にぶつからない間はずっと一直線に走っていて、壁にぶつかると、あっそうか、と方向を変える。
伊東 それは言い方をかえると、非常に自然体であるということでしょう。
八木 うーん。理性的判断というものが欠けているんだよ(笑)。あなたのいう「思い込み」で動く。「思い込み」であるということが、渦中にあるときはわからないんだね。
伊東 それが年をとられると、たとえばエロチシズムについても、距離を置いて考えられるとか、そういうことがあるんじゃないでしょうか。
八木 ありますね、やはり。
伊東 あと、『贈られた声』や『夕虹』の特徴として、私小説的ではあっても、自伝的な作品というよりは、フィクション性が強い作品である、という点が挙げられると思います。小説における「私」とフィクションの関係を、八木さんはどのようにお考えなんでしょう。野口富士男さんが「群像」の十九八八年の十月号に、「どうすればいいのか」というエッセイを書かれましたね。そのなかで、一見、私小説批判者とみえる中村光夫氏の作品にも、『グロテスク』など、私小説的ともいえる作品があることに、野口さんは共感を示されていらっしゃいます。わたしが思いますに、実は私小説作家と呼ばれる方々には、虚構への志向と言いましょうか、私小説風のフィクションを作ろうという意図が積極的にあって、かえって私小説を批判する側の方が、通俗的な文学観で私小説を見ている部分があるのではないでしょうか。
八木 この間、三浦哲郎君と対談をしたんだけれど(「海燕」新年号所収、「小説家の姿勢」)、やはり私小説の問題が出た。そのときお互い一致したのは、われわれは私小説を書こうと思って私小説を書いいるのではない、ということなんです。自分自身に今これが痛切な問題だというものがあればそれを書く。「私」という人称で書くわけですよ。それを見て評論家たちは、これは私小説だ、と規定するけれども、われわれは私小説という型を予想して、私小説を書いているわけではないんだ。それから『贈られた声』にしても『夕虹』にしても、なにも「私」とは無関係なフィクションではない。こういう女性がこういう生き方をしている、これが今の自分にとっていちばん懐かしい世界なのだ、自分にとってはここがいちばん気持の安らぐ世界なんだ、と言っているだけで、けっして「私」から離れているわけではないんだよ。
伊東 実は「私」とフィクションというのは地続きであるということでしょうか。
八木 本当にそう、「地続き」なんだ。ぼくは三浦哲郎君の『野』という短篇集がてとも好きでね。なぜって、あれは彼にとっての、いちばん懐かしい世界を描いているからなんだ。全体が三浦哲郎の世界で、三浦君の「私」なんですよ。三浦哲郎君にとっては、だからあれが私小説なんだと思います。強いて私小説、という言葉を使うならばね。「地続き」という言葉は、作者の側から言えば、まさにその通りなんだよ。あれは自分と無関係な世界をむりやりでっちあげてひとつの小説世界を作ったというものではない。自分にとって、これがいちばん親しく懐かしい世界です、みなさんはどうでしょうか、と読者の前に提示するわけだ。ぼくの場合なら八木義徳と署名をしてね。女の生き様にはほかにもいろいろあるだろうし、いろんな女の世界もあるだろうけれど、自分にとっては女の人たちの、こういうところがとても好ましいんだ、というつもりで書いているんです。
伊東 でも読者はだまされますけれども(笑)地名などで、実際にあるのだろうと思って調べると、なかったりするんですよ。『河口』でしたっけ。
八木 ああ、あれはね(笑)。
―― 『早稲田文学』(NO.178号 1991年3月刊)
より転載 ――