伊東 小説で「早稲田文学」にお書きになられたものでは、『海豹』が最初でしたね。
八木 そうです。
伊東 二十六歳のときだそうですね。昭和十二年でしたか。すでにその二年前に、学生結婚をなさっていたそうで。
八木 うん、学部の一年のときに、もう所帯を持っていましたよ。
伊東 それから、文学仲間では、長見義三さんがいらした。
八木 長見は学部一年のときに、当時改造社から出ていた「文芸」という雑誌に、『ほっちゃれ魚族』という作品を発表したんだよ。ぼくらの仲間では、センセーションだった。なにしろ改造社というのは、中央公論とならんで、当時は最も権威のある出版社で、そこから出ている文芸雑誌だから、ぼくらにはとても手が届かなかった。長見は北海道の千歳市に住んでいるけど、今でも親しく文通しています。
伊東 早稲田を出られてから、就職をされました。文藝春秋社をお受けになられて、その折の菊池寛社長のことや、先月亡くなられた永井龍男さんとの出会いについて、「新潮」の十二月号にお書きになっておられましたね(「永井さんの言葉」)。結局、満州理化学工業という、化学工業の会社に入られたんですね。
八木 いやその前に、今の江東区にミヨシ化学工業という、工業用の洗剤をつくる会社があって、そこに入ったんですよ。そこで満州の奉天に新しい会社をつくるという話が持ち上がって、ぼくは先発社員として送られたのね。
伊東 日経新聞(一九八九・六・一)に八木さんがエッセイとしてお書きになっていましたが、そこの面接試験をお受けになられたとき、早稲田の仏文を出ました、と言ったら、社長さんにからかわれたのだそうですね。
八木 そうそう(笑)。今でもその社長の顔が浮かぶね。品がよくて、血色のいい、白髪をきれいになでつけた、小柄な人でね。ぼくの履歴書を見ながら、きみは早稲田大学文学部仏文科を卒業だな、と言うから、はいそうです、と答えた。そうしたら、わしは文学のことはよくわからんが、フランス文学科というのは男女の色恋のことを主として研究してるところじゃないのかね。すると君はこの非常時に(日中戦争はすでに前年、昭和十二年の夏にはじまっていた)男女の色恋のことばかり勉強していたのか、と言うんだ。あんまり意外だったから、あははは、と大声をあげて笑ったんですよ。そしたら社長も、うふふふ、と笑いだした。社長が笑いだしたものだから、居並んだ重役たちも安心して笑いだしたのね。そうしたら、よし、君をとろう、と言った。鶴の一声。それで入社が決まったんだからね。おもしろい時代だったねえ(笑)。
伊東 ところが、満州に行かれてから、奥様が精神的に困憊されたり、と大変だったのだそうですね。このあたりのことは、作品からも読ませていただいていますが、そこで応召を受けて、中国の湖南省の長沙にでかけられた。
八木 いや、そのときは「ノモンハン事件」に引っ張られたんです。でも戦場には行かずに、軍隊の訓練だけで、帰されました。あのときの戦争は案外早く終わったからね。
伊東 ああ、それでは二度目の召集だったんですね。
八木 そう、満州の会社を辞めて、日本に帰ってきてからです。
伊東 そしてその二度目の召集を受けている最中の昭和十九年(一九四四年)、八木さんが三十三歳のときですが、『劉廣福【リュウカンフウ】』という作品で、芥川賞をお取りになられたのですね。
八木 そう。中国の湖南省の長沙から衡陽というところへむかって行軍中、途中の小さな集落で「大休止」、つまり二日ほど泊まって休養ということになったとき、半分泥びたしになった一通の書簡を受け取った。裏を見たら、「日本文学振興会」としてある。日本文学振興会ってなんだろうな、と思いながら封を切ってみたら、おまえの『劉廣福』という作品に芥川賞をやることに決まったけれども、それを受けるかどうか、という文面なんだね。そのときはうれしいというより、むしろびっくりという感情のほうが強かった。芥川賞をもらえるなんて夢にも思っていなかったからね。
伊東 深田久弥さんが少尉として同じ部隊にいらして、大変お褒めにあずかったとか。
八木 よその中隊の、小隊長をしてらしたんです。応召をくらったときに、横光先生のお宅にご挨拶にうかがったら、召集先が石川県金沢の部隊なら、ひょっとして深田久弥君もいっしょかもしれないぞ。もし会うようなことがあったら、きちんと挨拶しておきなさい、と言われたんです。そしてあれは門司から船に乗るときでした。ぼくは二等兵だから、使役で将校行李を担がされたのね。そして自分に渡された行李を見たら、深田久弥少尉、と大きな墨の字で書いてあるんだ。ああ、深田さんも自分たちといっしょの部隊なんだな、とわかった。そして南京の兵舎で、お会いすることができて、ご挨拶した。
伊東 行軍中には、横光先生とヴァレリーの名前を、口ずさんでおられたのだそうですね。
八木 いやあお恥ずかしい。でも本当なんだよ。ヴァレリー、横光先生、と口のなかで唱えながら歩く。そうすると落ち着く。なんせ重いんだ、背嚢が。完全装備の軍装だからね。だからだんだんへばってくるんだけど、ヴァレリー、横光先生、ヴァレリー、横光先生、と口のなかで唱えながら歩くと、なんとなくへばらずに歩ける。おまじないだったんだよね。今思うと馬鹿みたいだけれど、本当だよ。
伊東 『劉廣福』は、今で言えば小錦のような巨漢ですが、あれを読んでいると巨漢独特の哀しみというか、哀愁を感じますね。
八木 そう読んでくださればありがたいな。『劉廣福』という名前はモデルの実名をそのまま使ったんです。彼には最初から魅かれたな。あそこに書かれているとおり、彼は、みんなにいつでも後ろに押しのけられるのね。押しのけられても押しのけられても、いつでもニコニコ笑っているもんだから、こいつはおもしろい奴だと思った。それが第一印象だった。
―― 『早稲田文学』(NO.178号 1991年3月刊)
より転載 ――