§文学に進む理由

伊東 福武書店刊行の八木さんの全集が、とうとう全八巻で完結しました。また、第三八回の菊池寛賞もお受けになられた由、おめでとうございます。

八木 ありがとうございます。

伊東 一昨年に日本芸術院の恩賜賞を受けられ、昨年には芸術院の会員になられて、とこのところおめでた続きですね。一ファンとして、わたくしも嬉しく思っております。実は、早稲田の文学部が百年、「早稲田文学」も今年の十月に百年を迎えますが、今日は、八木さんのお若いころの文学遍歴、「早稲田文学」との関わりなどもうかがえればと思っております。まずは全集が完結したということで、そのあたりからお聞きしたいのですが。

八木 ええ、どうぞ。

伊東 数年前から、八木さん自選の全集が出る、という話は漏れ聞いていたのですが、やはり作品をまとめるという作業は、大変だったんでしょうか。

八木 ぼくは自分の書いたものを、あまりきちんと保存していなかったものでね。

伊東 編者の川西政明さんが、八木さんに惚れ込まれて、献身的とも言える努力をされたように拝見いたしました。八木さんもだいぶ手をお入れになられて。こうして八木さんのお作が身近なかたちで通読できるようになったわけですが、こうした機会ですし、これから八木さんの作品を読もうとされる、特に若い人たちのためにも、まずは八木さんの経歴をなぞるかたちで、お話をうかがいたいと思います。八木さんは一九一一年、明治四十四年の十月二十一日に北海道の室蘭にお生まれになりました。この年には、八木さんがのちに深く関わることになられる中国に辛亥革命が起こりましたね。日本の文学界では、これも八木さんの文学開眼のもとになった、有島武郎の『或る女』の前編が発表されました。室蘭の町立病院の院長をなさっていたお父様の、―― これは八木さんも書いておられますし、八木さんの文学を語るときには欠かせないものだと思いますので、申し上げてもよろしいかと存じますが―― 庶出子としてお生まれになりました。このことは代表作『風祭』や、『遺品』その他の作品に何度も登場してきます。また、お父様は上顎癌手術の名手でもいらして、葉山嘉樹の『海に生くる人々』にも登場なさっているという話は、『海の文学碑』などに出てまいります。『遺品』には、なじみの散髪屋に英国製の帽子をプレゼントされたという、感銘深い話が出ていますね。

八木 そうそう(笑)。

伊東 また、お母様は百歳くらいになっていらっしゃる。

八木 そう、百一歳です。

伊東 以前、川西さんと八木さんとの対談(「新刊ニュース」一九八八・七)で、ある出版社の依頼で四国遍路をなさったとき、お遍路さんの装束をお母様のために求められた、と話しておられましたね。

八木 八十八の札所のはんこが捺してあるから、死んだときには着せてやろうと思いましてね。

伊東 また『風祭』には、お父様のお墓を訪ねられて、嫡出子の方にお会いになったときのことが書いてあります。昭和五十二年にそれで読売文学賞をお取りになったとき、丹羽文雄さんは選評で、はじめて己の泣きどころに触れた、と言っておられます。が、それ以前にも『翳ある墓地』などの作品で、そのテーマを書かれておられますね。再会のしかただとか、嫡出子の方の穏やかな様子に、いい印象をもって読ませていただきました。

八木 幸いにね。

伊東 『夏落葉』では、その方のことを話題にしておられて、血を分けた兄弟じゃないの、と奥さまが言う、くだりがありますけれども、やはり八木さんの作品において、「血」ということは、非常に大きなテーマですね。

八木 むこうはそうでもないだろうけれど、こちらにとっては大きな問題だね。「血」というのは、他者が規定してしまうところがある。血を分けた兄弟、というのは、他人の声なんだ。こちらとしては、そう強い実感はないんです。ふだん接触していないんだからね。それなのに、血を分けた兄弟なんだから、もっと親しく会えよ、なんてことを周囲は言う。ぼくもむこうも、男の間では特にそうなのかな、「血」にはこだわっていないのにね。

伊東 『夏落葉』のなかで、その義兄にあたる方は八木さんに、血縁とは思っていない、知人として会っているんだ、と言われる。そんなこともあったせいか、変にべたべたしたところのない、さっぱりしたいい関係を保っているように思えます。

八木 実際、いいことを言ってくれたと思いましたね。血縁ではなく、お客さんとしてこうして会っているんだと言われて、なんだかさっぱりしましたよ、あのときは。伊東 最初に会ったとき、その方は非常に寡黙で、音楽を聴きながら話をされたというくだりも、大変印象深かったのです。さきほど八木さんは、血縁というものは、自分で意識しなくても、他者に規定されるとおっしゃいましたね。八木 そう、社会的に、それから法律的にも規定される。

伊東 そのような運命のしがらみを、志賀直哉の『和解』のように、八木さんなりに解きほぐしてゆこうというお気持があるのでしょうか。

八木 ぼくにとって、父親との関係は、ものを書く上では非常によかった。父親というものが一種の標的になったから。これが自分のぶつかってゆく相手だ、ぶつかってゆくんだ、という格好の標的になってくれたからね。かといって、どういう風にぶつかってゆけばいいのかわからないから、結局自分のやることがすべて親父に対する抵抗になったんですよ。勝手に生きて、それがすべて親父に対する叛逆になっていたなと思う。

伊東 それが、八木さんが文学の道に進まれた理由でもあるのですね。しかしお母様は『翳ある墓地』で、嫡子の方が立派になられたところを、お父様が一目でも御覧になれたら、とおっしゃっています。そのような、主家の再興を本当に喜ぶような、奉仕の感情の徹底した、忠実な方であったというくだりを読みますと、やはり明治の女性はそうだったのかな、と思いました。

八木 そうだね、そうだったよ。

伊東 この部分は作者がいちばんしみじみと書かれた部分じゃないですか。八木さんは地元の室蘭中学に進まれて、最初は剣道部の選手だったそうですね。このあたりは『海明け』という小説に書かれていますが、八木さんは、ご自分が“硬派”だったと書いておられる。

八木 そうそう(笑)。だからクラスでも、短歌とか詩とかをやっている連中を“軟派”だと言って軽蔑してましたよ。こっちは高等商船学校に入って、外国航路の船乗りになろうと思っていたんだから。だから短歌とか詩とかをやっているやつらが、非常に女々しく感じられた。

伊東 しかし友だちから有島武郎の『生まれ出づる悩み』を借りて、それが文学に目覚めるきっかけになったのだそうですね。

八木 そう。それまでは硬派をもって自ら任じているんだから、読むものといったら、立川文庫だものね。それがいきなり有島ですからね。その前に倉田百三の『出家とその弟子』も薦められたけれど全然わからなかったな。親鸞がどんなに偉い人だか、こっちは知らないんだもの。そのあとに『生まれ出づる悩み』と『カインの末裔』を読まされた。そして『生まれ出づる』は、北海道の漁師が主人公だから、非常によくわかった。ぼくは港町生まれだから、漁師や船乗りといった海上労働者に対して、皮膚感覚的な親しみがあったのね。そして有島さんの描く日本海の暴風雨の描写が、まるで目に見えるように書いてあるものだから、こりゃあすごい、と感動した。主人公も、漁師のくせに絵を描くなんて人でしょう、ぼくの知ってる限りではそんな漁師は一人もいなかったから、すごいやつがいるもんだなあ、だなんて。そんな単純な感動でしたよ。それが文学的な感動と言っていいのかどうかは知らないけれどね。

伊東 詩人の荒川洋治さんが、耕治人さんが亡くなられたときの追悼の文章で、「最後の白樺派」といったことを言われています。耕さんは、実際に、武者小路実篤や千家元麿といった方に師事されていますが。八木さんの場合も、耕治人氏とはちがった意味で、同様のことが言えるのではないかと思います。八木さんの作品には、狭い意味での私小説とか早稲田派のレアリズムではなく、白樺派的な感覚、感性が、生来のものとして備わっているのではないでしょうか。

八木 うーん。いずれにしても、有島さんから出発したということは、大変幸運だったと思う。資質的に白樺派の傾
向があったのかどうかということはわからないけれど、いい作家に、最初にぶつかったと思うんです。

―― 『早稲田文学』(NO.178号 1991年3月刊)
                 より転載 ――