1.八木文学との出会い

「土合さん、この本いいから読んで見ない」、小さな新刊書店の店長である友人
から店先で差し出された一冊の文庫本。それが八木義德著『摩周湖・海豹』(旺
文社文庫)で、昭和50年、今から約三十年前のことである。続けて彼は「この作家は室蘭出身で芥川賞を取ったんだよ」と。 それまで何となく八木義德という作家の名前を聞いたことはあったが、実際に本を手にしたのはこの時が初めて、そして当時文化不毛の地と言われていた我が故郷北海道室蘭に芥川賞作家が居たことに驚いたものだった。早速この文庫本を購入、読破したことは言うまでもない。これが私と八木文学との最初の出会いである。

それまでの私の読書歴と言えばごたぶんに漏れず中学生時代から世界文学に
夢中で、ヘッセ、ジイドに始まりトルストイやヘミングウェー、特にパール・バックの「大地」に大感銘したものだった。その後、モーム、ミラーに魅せられ、小説は外国文学だと一人感じ入り日本文学には見向きもしなかった。 社会人になってからは仕事と遊びで忙しく、読書する時間はめっきり少なくなり、読書は気分転換に松本清張を筆頭とする推理小説を読むのみ。ただ新刊書店に行くのは大好きで、暇を見つけてはよく冷やかしに行ったものだった。

そんな時の八木文学との出会い、八木先生の文学開眼の書は有島武郎の「生れ
出づる悩み」、私の場合は今考えてみるにちょっと薹が立ったがこの『摩周湖・海豹』。当初友人に勧められ、また地元室蘭出身の芥川賞作家ということで読み始めたものの、何と表現していいか判らない様な、特にどこの場面に感動したと言う訳ではないけれど、後からジワジワ浸み込んでくる感情に襲われる。“これが小説だ!”と。同郷の作家で小説の中にも室蘭が出てくる親近感もさることながら、初期の「私のソーニャ」等の求道的作品群に最も強く惹かれ、そしてその後の「摩周湖」を始めとする北方的感性の作品によってあっという間に八木文学にのめり込んでしまった。

だが当時八木作品を読むにも新刊店で簡単に手に入る本が無く、これが私を古書
店に通い詰めさせるきっかけとなった。当時室蘭で唯一の古書店であった背文字屋書店を知り、そこで八木先生の最初のエッセイ集『私の文学』を手に入れる。そしてすでに絶版本となっていた本を求めるべく、古書情報誌の「日本古書通信」を紹介してもらう。この『私の文学』は私をより一層八木文学に魅せさせた一冊となった。

『私の文学』によって八木先生の波乱に富んだ過酷な文学的半生について初めて
知り、その文学一筋の生き様に胸をうたれた。 特にここに収録されている「文学の鬼を志望す」の中で、八木先生は感銘をうけた言葉として、松尾芭蕉の「無芸無才、ただこの一筋につながる」、嘉村礒多の「私は宗教によってよりも芸術への思慕そのものによって救われたい」、また上林暁の「常に不遇でありたい。そして常に開運の願いをもちたい」の三つを上げ、そして「鬼となるためには角が生えなければならぬ」と結論付けたのだが、私はこの八木先生の自分に厳しくひたすら自己の感性に忠実に生き続ける人生のロマンに感動する。

 八木先生は師・横光利一のことについて聞かれ、「作品にやられる前に、横光利一という人間にやられましたからね」と言っておられるが、私もまさにこれと同じ。当時、まだお会いしたことがなかった人間八木義德にすっかりやられてしまった。そしてこの気持ちが昂じ何とか八木文学全作品を読破しようと思い立った。今考えると何と無謀な思いつきをしたものか、まだまだ不明の作品もあるはずで、三十年も経った現在も全作品読破を果たしていない。