『摩周湖・海豹』(昭和50年10月、旺文社文庫刊)と『私の文学』(昭和46年12月、北苑社刊)の二冊ですっかり八木文学に心酔した私は、とにかくすぐ読める著作単行本探しに熱中することになる。 室蘭の古書店「背文字屋書店」のご主人である谷地信行さんと親しくなり、古書情報誌「日本古書通信」を紹介してもらい、これらが情報収集の場となった。これが今考えてみると「書誌」(特定の人、あるいは題名に関する文献目録)作りの第一歩となった。この情報誌で私と同じ様に古書を探している人達の多いことに驚いたものだったし、またおかげで多くの文学仲間そして古書店と知り合うことになった。
八木作品を読破するにもまず資料が必要と、その時は書誌には遠く及ばなかった
が八木先生の自筆年譜を基にした年代別の作品リストを作り始めた。しかし目に付いた作品は読むだけ、ただ著作単行本だけはすべて揃えるべく、せっせと古書店通い、情報収集に精をだしていた。 こうして2~3年で粗方著作単行本を手に入れることが出来たのだが、どうしても手に入らなかったのが『母子鎮魂』(昭和23年3月、世界社刊)と『四国遍路の旅』(昭和37年4月、秋元書房刊)の二冊。 特に『母子鎮魂』は八木先生の処女作品集であり、昭和19年芥川賞を受賞した「劉廣福」が収録されている。 戦後すぐに刊行され発行部数も少なく、また芥川賞受賞作品収録初版本としての希少価値があり、古書市場では数拾万円の古書価がついていたもの。本探しを始めてから六年、「日本古書通信」Y堂古書出品欄に『母子鎮魂』の書名、初めて目にした書名に一瞬びっくりするもこれを逃してなるものかと、早速Y堂に速達で注文し無事入手することが出来た。 次いで最後まで残った『四国遍路の旅』も。 ようやく全著書八年掛かりで揃え、一人で悦に入っていた。
この当時、室蘭市では「室蘭文学館設立期成会」が中心となり八木文学をメインとする文学館設立運動が起きていたが、私はと言うとこの運動については新聞報道で知っていたが一人で八木作品を楽しみ、そして少しずつではあるが資料を収集していた。そんな私に、本格的に「八木義德書誌」作成をと決心した出会いがやって来た。
昭和58(1983)年10月、室蘭文学館設立期成会主催「八木義德と北海道芥川賞作家展」が室蘭市内のデパートで開催される。 この文学展の会場で私の転機となったお方との出会い、設立運動の中心となっていた樋口游魚さんと深海秀俊さん、そして古書店主の石原誠さんと知り合う。樋口さんと深海さんは、私が八木先生の全著作単行本を所持し資料を収集していることに驚き、「ぜひ単行本だけでなく、作品が掲載されている初出雑誌・新聞等の資料も集めて欲しい」と。 また石原さんは私の作品リストと資料等を見た後、「ここまでやっているのなら、ぜひ書誌を完成させては」。「書誌」と言う用語を初めて耳にした私、石原さんは続けて「作家にとって書誌は大切で重要なもの、全集等を刊行するにも書誌が無ければ出来ない。日本では書誌を軽視しているきらいがあるが」。 このお三方の勧めで、どうせ遣るならきちんとした仕事をと決心する。
早速石原さんから書誌の正しい作り方の教示を受けた私は、参考にと他の書誌文
献を調査し、私なりの書誌作成の基本を決める。
「文献については必ず初出誌等を自分の目で確認、決して孫引きをしない」「書誌は小説のように読んでも面白くないので、とにかく見やすく誰にでも判る様にすること」、この二点を忠実に守ることにより私の目指す書誌が出来るのではと。どこ迄より完全・正確に出来るか判らなかったものの、こうして今迄以上に八木文献の収集・調査にのめり込んでしまう。そしてこの一年後、この「八木義德書誌」完成に向けまたまた力強い仲間が増えることになる。