八木義德書誌作成を決心したものの、当初どの様に行うか見当もつかなかった。
が、まずは自筆年譜が土台と、『女』(旺文社文庫)の年譜を各年代別に書き出し、これを基に作品調査を始めることにした。 どの雑誌・新聞紙等に八木先生の作品が掲載されているか、初出誌紙を確認する作業をスタートさせたものの、そう簡単に行かないことを思い知らされる。
初出誌紙等の文献がどこの図書館等に所蔵されているのか判らないのである。
改めてまずは情報収集が肝要と、札幌中央図書館に頻繁に出かけることになる。
可能な限り各公共図書館等の文献所蔵目録を調査、また各古書店の目録で「八
木義德」と名前が載った文献は必ず見直し、そして注文した。
が、私の様に地方に住んでいる者にとって文献収集、調査の条件は好くない。
古書目録に掲載された八木文献の注文では、幾度となくほぞをかんだものだった。文献調査では勿論私が上京出来る訳もなく、懇意になった古書店の紹介を受け、国立国会図書館での文献調査をしてもらうお方に依頼した。 また日本近代文学館・北海道文学館等の会員となり、多くの文献調査をし、そして複写依頼をした。この本格的な調査で自筆年譜にも間違いが散見され、改めて書誌の重要性を認識、徐々に八木書誌の形が見えてきた。
そして昭和59(1984)年は私にとって忘れられない年であった。 とにかく夢中で八木文献の調査、収集に精をだしていた。 この年の十月、室蘭市で室蘭文学館設立期成会主催の「八木義德と坂東三百文学展」が開催された。 ここで東京より来蘭した横光利一の若き研究家、小林好明さんと知り合う。 彼も私と同様に横光利一研究の際、八木先生とお近づきになり、すっかり先生に心酔したとのこと彼は私にとって好き友人、心強い味方となってくれた。
今ここに昭和59年12月11日・東京都町田郵便局消印の一通の封書を手にしている。私は厚かましくも八木先生に文献確認のことで手紙を初めて書いた、その返事のお手紙である。私にとって忘れられることの出来ない、八木先生からいただいた初めてのお手紙である。それには私に対する暖かい、お礼の内容のもの
であり、感激したのは言うまでもない。これで私の八木先生に対する気持ちは揺
るぎのないものとなった。
「八木義德と坂東三百文学展」を契機に新しい仲間が出来た。 私に書誌作成
を勧めてくれた深海秀俊さん、背文字屋古書店主の谷地信行さん、広告社勤務
の川村敏昭さんと私の四名で、「八木義德文学研究会」を発足させた。 会発足
の主旨は「郷土の作家・八木義德をもっと市民に知ってもらおう」、そして最終的には「室蘭っ子の手で、八木義德全集刊行を」。 研究会としてまずは、それの基礎となる八木作品目録の完成、図録刊行を当面の目標として活動を開始する。
会発足の翌年・昭和60(1985)年10月、初めて八木先生とお会いすることになる。先生は五年振りに故郷で講演、そして「八木義德文学碑」顕彰祭に出席するための来蘭であった。私はというと、その講演会の前列に陣取り、講演後の興奮も醒めやらぬ気持ちで八木先生にお会いした。先生には大変失礼な言い
方になるが、その第一印象は私が思っていた通りの本当にやさしい好々爺の先生
だった。この来蘭の際、八木義德文学研究会の面々は改めて先生に「八木義德
書誌」の刊行をお願いし、快諾を受けた。 これにより本格的に書誌刊行に向け活動し出すも、八木書誌を手にするのはこの一年後であった。