4.八木義德書誌心には北方の憂愁(トスカ)」の刊行

昭和60(1985)年10月、八木先生が来蘭し初めてお会いすることが出来た。その際、八木義德文学研究会の面々は改めて「八木義德書誌」の刊行を先生
にお願いし快諾を受けた。 私が八木文学と出会ってから既に十年、また本格
的な書誌作成を始めてから二年が過ぎていた。

研究会では早速一年後の書誌刊行を目指し、月二回の会合を行い具体的に作業を始めることになる。この時、私が作成していた目録の完成度は九十パーセントと考えていたが、これを土台に編集、レイアウト等を順次進めていった。今、考えてみると冷汗もの、誤記遺漏が多く完全な書誌には程遠いものであった。それについては後述するが、まずは我々の書誌はどのような形態にするか、今迄刊行された書誌を見比べてみたが、どうも難しくて見づらくそして面白くない。それではと中にエッセイも入れ、写真を多く使い、文献もただ羅列して書くのでなく年代別の一覧表のようにして判りやすく読みやすい様に工夫をこらした。そして肝心の題名は『心には北方の憂愁(トスカ)』に。私自身この日のために温めていたもので、八木先生を一言で言い当てた言葉であると思っている。こうして大まかに形態は決めたものの、これからが大変だった。書誌の中にエッセイが入っているのは珍しく、またそれに書いていただくお方を誰にお願いするか。書誌刊行に物心両面に渡りご協力いただいた樋口游魚会長を始めとする「室蘭文学館設立期成会」に相談。 こうして中央文壇から当時日本文芸家協会理事長で、八木先生と親交の深かった作家の野口冨士男さん、古い友人である作家の芝木好子さん、以前室蘭に在住し八木論を発表していた文芸評論家の武田友寿さん、北海道内からは北海道文学館々長の木原直彦さん、タウン誌「北の話」を刊行していた八重樫實さん、八木先生を師と仰ぐ作家の上西晴治さん、また地元室蘭から作家の金丸義昭さん、そして起っての私の願いで私と同じ様に先生に魅せられた若き横光利一研究家の小林好明さんの八名。果たしてこのお方達が無名の我々のために無償で書いてくれるだろうか、しかしその心配は杞憂に終わった。 我々のためと言うよりは、八木先生のおかげで次々に私の手元に原稿が送られて来た時の気持ち、これは大変な事になったぞ、必ず立派な書誌を完成させるぞと改めて決意したものだった。 そして最後の大仕事、厚かましく八木先生に題字と序文のお願い、これも無事叶うことになった。

 こうして昭和61(1986)年10月、印刷と難しい装丁で大変お世話になった室蘭印刷さんから届いた出来立ての本を手にして、思っていた以上の出来栄えに驚くと同時に嬉しさで胸が一杯になった。 完成した書誌『心には北方の憂愁(トスカ)─八木義德書誌─』はB5判、百五十一ページ建て、五百部印刷発行。八木先生の自筆題字、先生の序文、八木先生に関りのあるお方八名の寄稿文、続いて「八木義德の軌跡」と題し、生立ちや略歴の記述。「書誌」の項目では全著作二十七冊を写真と解説付で紹介した図録、昭和8年の断想録「手帖」から昭和60年12月の随筆「友と別れ友と会う」までの作品を年代別の一覧表にした著作初出目録、また八木義德に関する参考文献など、約千点に及ぶ作品を網羅している。

昭和61年10月17日は私と八木義德文学研究会の仲間にとって忘れられない
一日となった。この日室蘭市内のホテルで八木先生をお迎えし、『心には北方
の憂愁』の出版祝賀会が開催された。発起人を代表して室蘭文学館設立期成
会々長樋口游魚さんの挨拶、そして八木先生より「自分でも忘れていたものが、
ぞくぞく出て来た。これが自分の生の証なんだ、と思った。」との感謝の言葉が
あり、感激の一日となった。そしてこの書誌刊行が契機となり、我々研究会の最
終目標である『八木義德全集』出版に向け、また一歩前進することになった。