5.誌刊行から八木義德全集』刊行に向け

昭和61(1986)年10月の八木書誌刊行から、平成2年3月『八木義德
全集』(福武書店刊)刊行までの三年半はあっという間に過ぎてしまう。

地方発信の八木書誌は全国紙にも採り上げてもらうなど、我々が思っていた以上の反響とよい評価を受ける。 書誌刊行時、八木先生の作品について九十パーセント以上は網羅したと思っていたが、これが恥ずかしい限りでまだまだ不完全、この後多くの未見の作品が判明することになる。 当時北海道文学館理事長だった和田謹吾さんから「北海道新聞文学賞」関連資料と北海道関係文学資料を、また藤女子大学教授の山田昭夫さんからも未見の数多くの八木文献の教示をいただいた。

またこの書誌刊行後に数多くの文学仲間とお知り合いになり、私の大きな財産となった。 世の中には私と同じ様に、いやそれ以上に文学と作家に魅せられた人達がいるものだと感心する。 その中、特に私と同じように八木文学に魅せられた澤辺茂徳さん、宮下拓三さん、伊東貴之さんとは今も親しく交際している。

丁度この頃、勤務の都合で室蘭市から札幌市に転居、これが今まで以上に私を八木文献収集・調査にのめり込ませることになった。毎週休日には北海道立図書館・札幌市立中央図書館、また古書店は勿論のこと新刊書店巡りに精を出した。こうしてこの時期は面白い程に新しく八木文献を発掘し、また文献を手に入れることが出来た。特に八木先生の早稲田大学時代の同人誌『黙示』創刊号(昭和9年10月刊)、芥川賞を受賞した「劉廣福」初出掲載誌である『日本文學者』創刊号(昭和19年4月刊)。これを手に入れた時の嬉しさ、他の人にはきっと判るはずがないだろう、一人でに笑いがこみ上げてきたものだった。

今考えてみるに当初の八木書誌は誤記、遺漏が多数あり出来栄えは今一歩も二歩でもあったが、八木文学研究にとっては大きな一石となったものと自負している。この刊行に寄って、より多くの八木文献発掘に繋がり、そして『八木義德全集』出版の発端となったのだから。

書誌刊行から一年後の昭和62年秋、文芸評論家の川西政明さんから突然に電話、来札しているとのことで早速お会いする。初対面であったが、八木先生を酒の肴に楽しい時間を過ごす。この出会いが私にとっての、八木全集出版の第一歩であった。 この後全集出版元である福武書店と八木先生、川西さんとの間での詳しい話は知らない。 だが、水面下では全集出版の話は進んでいた。

翌昭和63(1988)年10月21日の八木先生喜寿の誕生日、故郷室蘭
市に全国的にも珍しい官民協力の運営方式である、八木先生を精神的支柱としたむろらん「港の文学館」が開館した。 東京から先生が来蘭したのは言うまでもないが、福武書店発行の文芸誌『海燕』編集長であった根本昌夫さんも来蘭。 ここで全集出版の話しが進んでいることを聞き、私の気持ちも高揚、益々八木文献調査・収集に力を注ぐことになった。

こうして翌年夏、三たび川西さんが来札、八木全集が本決まりとなり、収録作品・刊行巻数等について具体的に検討しているとの話、久し振りに美味しいお酒であった。 この後すぐに八木先生からお手紙があり、全集の年譜作成の依頼があり、勿論二つ返事で引き受けたことは言うまでも無い。そして10月に川西さんから全集出版が最終決定したとの連絡が入る。

全集は全八巻本とし、各巻の解題は川西政明さん、装丁は田村義也さん、また年譜・書誌は私が担当で行うことになった。 そして何よりも第一巻配本を平成2年3月に予定しているとのこと、いよいよ我々の最終目標である『八木義德全集』が目の前に見えて来た。