『八木義德全集』 出版の気運は言うまでもなく、八木先生の故郷室蘭市の「港の文学館」開館と無縁ではない。八木先生を中心に据えた文学館開設運動、そして開館が八木義德全集出版の大きな力となった。
平成2(1990)年3月、文学館開設前後二年間の準備期間を費やし、待望の
全集が刊行され、その第一巻目が私の手元に届いた。全集刊行に骨を折った川西政明さんの解題、そしてブルーを基調にした田村義也さん装丁の第一巻本が。当時の私の日記には「ブルーを基調にした素晴らしい装丁の本。ようやく我々の念願叶う」と、興奮の面持ちで書いている。そしてこの全集出版に際し、「八木義德の場合は清潔で不器用のまま大文学になっているのだ。文学とは、文士とは何かを根本から考えさせる全集である。」(「北海道新聞」平成2年5月14日)と奥野健男氏が、また「八木義德はそうした疾風怒濤の時代を全力で走った。そこには生々しい生の傷跡がしるされている。」(「北海道新聞」平成2年3月5日)と川西さんが人間八木義德について述べている。
しかし私と言えば全集刊行の始まりに喜んでばかり居られなかった。最終巻で
ある第八巻目に、八木義德年譜・書誌を書く大きな仕事が待っていたのだから。
八木義德書誌『心には北方の憂愁【トスカ】─八木義德書誌─』 (昭和61年10月刊)刊行後も、八木文献の調査・収集には手を緩めず続けていた。が、全集収録に際してはまだまだ不備、不明の文献が多々有るものと思っていた。直接
八木先生にお会いし、そしてお聞きしたいことが沢山あったことから、また福武
書店の根本さんの勧めもあり思い切って上京した。
この年の4月初旬、初めて八木先生の自宅を訪問する。当日集まったお方は八木先生ご夫妻を始め、川西さん、根本さん、横光利一研究家の小林さん、そして私と、八木全集出版に関わった六名の面々。年譜・書誌の相談は勿論のこと、他の文学談義に花が咲き、有意義な一日となった。翌日は一人で八木先生のお宅を訪ね、ここで今迄気になっていたことの聞き取りや未確認文献の借り受け等、訪問目標を一応達成する。しかしながらここでも、未見の文献が多々あることを改めて痛感した訪問となった。
東京から帰って、まず年譜の再チェックを行う。ここでは八木先生のお話が大いに役立ち、そして古い事柄については各図書館や新聞社への調査と、あちこちに聞きながらの仕事、こうして6月初めに原稿を出版社へ。また年譜と平行してやっていた文献確認の作業、先生からお借りして来た資料を基に、これも各図書館での調査や新聞社への調査依頼等、以前にも増して新文献が確認でき毎日が楽しい作業で充実していた時期でもあった。こうして書誌の原稿も7月末に出来上がる。
9月には出版社から送られて来た原稿ゲラの校正作業が待っていた。こうして校正作業が一段落した間に八木全集は七巻目まで手元に送られてくる。大きな仕事を終えた充実感はあるものの、最終巻の出来はどうか、一抹の不安があった。
平成2(1990)年10月、ブルーを基調にした素敵な装丁の『八木義德全集全八巻』が私の書棚の中心に飾られた。ちょっとした校正ミスはあったけれど、最高の出来栄え。第八巻目に掲載された年譜・書誌の欄には私の名前が、文学全
集に名前が載るなど信じられない名誉と感激。我々の最終目標である『八木義
德全集』がここに完結したのである。
しかしこの全集完結でも八木書誌調査作業は終わらなかった。これを機にまた、
私に最高の援軍となる友人と知り合い、また書誌増補版刊行に邁進することに
なる。