平成4(1992)年3月、八木先生は芸術の振興に顕著な功績のあった交友として、四人目の「早稲田大学芸術功労者」表彰を受け、またその表彰記念「八木義德展」が母校早稲田大学で開催された。これがきっかけとなり私にとって最高の援軍となる、「教育図書館」勤務の横川敏晃さんと知り合うことになる。横川敏晃さんは母校である早稲田大学の戦前の文学同人誌研究者として、八木先生の親友であった長見義三さんを含む文学者を研究されている。横川さんとは今でも、毎週のようにメールや手紙のやり取りをし多くの情報や文献収集を受けており、此処まで調査・研究が出来ているのも横川さんのお蔭と言っても過言ではない。そして『八木義德全集』刊行後も八木文献調査・収集の手は勿論緩めるはずもなく、また今迄判明した文献を正確に保存すべく、当時はまだ主流であったワープロに「八木義德書誌」を入力する作業を開始、没頭する。
勤務の合間を縫っての作業であり、全ての八木文献を入力し終えるのに二年間を
費やしてしまった。これが今考えるに、新しい書誌作成に大いに役立つこととなった。
平成8(1996)年、勤務の都合で九年振りに室蘭に戻る。故郷室蘭、そして「港の文学館」の皆さんは私を温かく迎え入れてくれた。その「港の文学館」に笠原肇さんを部長とする研究部会が発足し、私もその一員となった。その研究部会の最初の仕事として、室蘭から全国に発信することの出来る「港の文学館叢書」の刊行を決定、その第一巻目の叢書に私が今迄作成してきた「八木義德書誌」を採り上げることになった。これは私にとっても大変有難いこと。以前刊行した『心には北方の憂愁(トスカ)─八木義德書誌─』 からすでに十年の歳月が過ぎており、その後多くの新しい資料が判明していることから、改訂版を出す必要に迫られていたのだ。すでにワープロに入れていた八木資料を基に、これからまた一年の間新しい八木書誌刊行のため精力的に文献調査・収集に励むことになる。平成9(1997)年4月、赤色のカバーが附いた素敵な装丁の『港の文学館叢書第一巻 八木義德書誌』が刊行された。きっと私にとって最後の書誌であろう、「室蘭文学館の会」の皆さんと多くの文学仲間のお陰を持って。特に今回の書誌は「港の文学館」の八木文献所蔵目録を兼ねる様に編集した。作品標題の頭部に、館か私かの所蔵表示をし、広く八木文学研究の場として利用出来る様にした。
そしてこの間、平成5(1993)年には八木先生から、芥川賞正賞の「すずり」を始めとする文学・文化賞受賞の記念品等約四十点や生原稿、文学資料、そして蔵書約二千冊が「港の文学館」に寄贈された。この年この資料を基に、「八木義德文学展~文学60年のあゆみ~」が4カ月間に渡り、また平成10(1998)年にも、今度は5カ月間に渡り「八木義德・三浦清宏文学展」が同館で開催される。 また平成11(1999)年にも八木先生より生原稿、書簡、蔵書等文学資料ダンボール六十九箱の寄贈を受け、「港の文学館」は名実ともに日本一の八木文学資料館となった。
平成11(1999)年10月21日の八木先生米寿の誕生日、「港の文学館」の一室に「八木義德記念室」がオープンした。八木資料の展示スペースは以前の十倍以上になり、また展示資料も新しく先生より寄贈していただいた資料を中心に、内容も充実したものになった。特に記念室の白眉は同人雑誌『くらるて』二冊である。八木先生が早稲田高等学院在学中の昭和8年に、同級の中村八朗らと発行した初めての同人誌で、今迄誰も見たことが無く、幻の雑誌と言われていたもの。先生から寄贈された資料を整理している時に発見、その時の驚きと興奮は今でも忘れられない。しかし記念室オープンの喜びが醒めやらない翌月、私にとって一番悲しいこと、八木先生の訃報を聞くことになる。