8.八木先生の死を乗り越えて

平成11(1999)年11月9日、この日の夜、「港の文学館」館長の樋口さんより悲しい知らせの電話を受ける。 病気入院中の八木先生のお体については
心配していたが、お元気にしているとの話を聞いたばかりであった。 何か気持
ちがストンと落ちた様な、しばらく虚脱感に襲われる。

八木先生の葬儀は14日午後六時より通夜、また15日午前十時より告別式が
町田市の南多摩斎場で無宗教で執り行われた。 葬儀委員長は結婚式の仲人をしてもらった作家・吉村昭氏が、司会は先生を師と仰ぐ作家・佐伯一麦氏が、そして作家・三浦哲朗、評論家・高橋英夫両氏が心のこもった弔辞を読み上げた。 
私は先生と最後のお別れをすべく葬儀に参列、八木先生が師横光利一の葬儀で棺を運んだ様に、私も先生の棺を運びながら心の中で最後のお別れをした。また12月17日には、名誉市民となっていた故郷室蘭市葬が執り行われる。祭壇は先生の遺影と八木義德文学碑が建立されている測量山を象っており、ここでも心のこもった葬儀となった。

翌年春、正子夫人より講談社文芸文庫で八木先生の短篇集を出版することになったとの、嬉しいお電話が入る。 そしてそこに掲載される年譜と著作目録の作成を依頼される。私にとって願っても無いことであり、早速作業を始めるこ
とになる。 
先生が戦前の旧満州在住時については明らかでなかったが、先生の親友であった故長見義三さんのご子息有方さんより、この旧満州時代の先生から長見さん宛ての数点の書簡等を拝見し明らかになった時でもあった。 
平成12(2000)年8月、講談社文芸文庫『私のソーニャ・風祭 八木義德名作選』が刊行される。私が作成した同人雑誌時代、旧満州在住時、そして先生晩年の消息について少しは克明になったであろう年譜と著作目録が掲載された。

そして八木先生一周忌の11月、室蘭市で室蘭市主催の「蝸牛忌」が、また東京都でETG主催の「風祭忌」と、それぞれ先生の小説にちなんで名付けられた法要が催された。 特に「蝸牛忌」では室蘭市主催の学生作文コンクール「八木義德自由作文賞」が創設され、その第一回表彰式も同時に行われた。これは現在も続いており、室蘭市内の学生達の大きな励みとなっている。

しかし私は『私のソーニャ・風祭 八木義德名作選』刊行後もゆっくりしている
暇もなかった。 室蘭文藝協会が年一回刊行する市民文芸誌『室蘭文藝 34』
が八木義德追悼号を編むとの事で、その編集の大役が回ってきたのである。
先生ゆかりのお方、また今迄の八木文献調査・収集の際、厚かましいお願い事と其れからお近づきになった多くのお方に寄稿文とアンケートのお願い。 
今は故人となられた文芸評論家・保昌正夫さん、装丁家・田村義也さん、俳人・福田甲子雄さんお三方を始め、俳人・清水基吉さん、作家・三浦清宏さんなど31名のお方から温かい一文をいただいた。 またアンケート回答も作家・吉村昭さんら48名の多くのお方からいただき、改めて八木先生の偉大さを感じた編集作業となった。特に正子夫人にはこちらの意をお汲み取りいただき、先生の随筆「さて去らんかんな」、「霧笛の室蘭」の収録等、多大なご理解とご協力をいただいた。 また八木小説教室の教え子達で結成した、そしてこのホームページを主催しているETGグループ代表の草野大二さんと知り合うことになる。

こうして平成3(2001)3月、「特集・八木義德を語る」と題した『室蘭文藝34』が刊行された。 多くのお方の協力と、そして先生に対する敬愛に溢れた一冊が。

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八木義德先生に憑かれて早三十年が過ぎようとしている。その間二度にわたる八木書誌の刊行、また『八木義德全集』の年譜・書誌の担当。そして一番悲しい八木先生の死。しかし私は続ける。これからも八木文献収集、調査に努め、より完全な『八木義徳書誌』完成を目指して。